― 421 ―の5名がKBSの理事である。そして、中国展において日本人唯一の講演を行ったことで知られる矢代は、KBSからの派遣でロンドンに滞在していたのである(注33)。〔図4〕には中国展の会場で、根津嘉一郎出展の《饕餮文方盉》を前にデイヴィッドやラファエルと一緒に団と矢代が写っている。2人はまさしくKBSの代表として参加しており、KBS理事の樺山も10月にロンドンに入り中国展を参観、デイヴィッドと面会している(注34)。このことからも、中国展への日本からの参加はこのKBSを中心に行われたということがわかるのである。本論を閉じる前にKBSと中国展との関わりについてもう1点指摘しておきたい件がある。それは、中国展終了後の1937年から38年に王立芸術院において日本芸術国際展覧会(以下、日本展)の開催案があったということだ。1935年3月29日のKBS第19回理事会の席において、同展の委員として三原、団、濱田等5名が任命されている(注35)。紙面の都合上、指摘するにとどめるが、外務省やKBSが中国展の日本参加に天皇陛下までをも巻き込んで努力した背景には、この計画の存在があったと考えることができるのである。おわりに中国展実現の背景には、様々な立場の人々の多様な思惑が複雑に絡み合っていた。中国美術愛好家を中心とする同展の主催者は、実際に故宮の宝物に触れることができる展覧会を嘱望し、会の成功により多額の利益を得た。他方、国民政府は世界に向けて英国政府との親密な関係をアピールする場を手に入れることができた。では日本はと言えば、重要美術品貸し出しに関して一枚板とはいかなかった。そこには、文化財保護を最重要課題とする文部省重要美術調査会と、文化外交で国際的な日本の地位を高めようとするKBSの対立があったのである。目的はどうであれ、中国展の開催に際しては英中日の外務官僚が極めて重要な役割を果たしたことが、今回の調査で明らかとなった。芸術関連の研究では注目されることのない彼らであるが、今後近代文化外交をテーマに研究する上において、避けることのできない存在となることだろう。本論では紙面の関係から、中国展への日本からの出品作品についての調査結果を掲載することができなかった。その他にも、日英間の詳細なやりとりや、KBSの活動について多くの新知見を得ることができたため、他稿で発表することを視野に入れ本論を閉じることとする。
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