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― 442 ―その他今回、定期刊行物はリストに加えていないが、ジャコメッティのエッセイを掲載した『同時代』誌第8号を始めとする、同誌各号も財団に保管されている。三 日本文化交流とジャコメッティジャコメッティの日本関連の蔵書は、1908年刊行の北斎作品集を除き、すべてが1950年以降に刊行されている。ジャコメッティは第二次大戦中に故郷スイスへ疎開したものの、1927年から没する1966年までの約40年間、居を変えることなく、パリ14 区イポリット=マンドロン通りの住居兼アトリエで過ごした。ジャコメッティ不在のアトリエは、彼の弟ディエゴが留まっていたが、幸い戦火を免れ、無傷のまま残された。従って、1950年以前の書物が引っ越しや戦火などによって失われたとは考え難い。さらに個人的理由で書籍類を処分したとの記録も現時点では見当たらない。以上の点から、日本関連資料数の急激な増加は、1950年以降に、ジャコメッティの日本への関心が高まったと捉えるのが自然であろう。それにはいくつかの要因が考えられるが、もっとも大きな要因として前述の矢内原との出会いがあったと筆者は考える。実存主義の哲学者ジャン=ポール・サルトルを研究するためパリに留学した大阪大学教授の矢内原は、1956年にジャコメッティと知り合う。矢内原は出会いから間もなくモデルを約3か月にわたり務めたが、再度ジャコメッティから請われ、57年、59年、60年、61年と5回にわたり渡仏した。その度に彼はジャコメッティに日本文化についての書籍や仏像を贈り、ジャコメッティは矢内原を通じて日本文化を深く知ることとなる。また57年からはアネット夫人との親交も深まり、矢内原と夫妻はより強固な関係を築くに至った。その結果、夫妻の共通の関心事として日本文化があった。1950年以降の書籍の急増のさらなる要因として、戦後における日本とフランスの文化交流が活発に行われたことが挙げられるであろう。1950年に戦時中に中断されたフランス給費留学生制度が再開される(注11)が、とりわけ1953年に調印された日仏文化協定を契機として、フランスに居ながらにして日本文化に触れる機会が飛躍的に増えることとなる。国家間のプロジェクトとして国宝が多数展示された1958年「日本古美術展L'art japonais à travers les siècles」はそれを象徴的に物語るものであるが、他にも旧蔵書に含まれる古典芸能の公演や、華道や書道の紹介もなされるようになった。学術分野に話を戻すと、1954年、55年に日本の考古資料をフランス国立美術館に寄贈する(注12)という、両国間で行われた考古学分野での交流も、おそらくジャコメッティの関心になんらかの寄与を果たしたのではないかと考えられる。ジャコメッティが具体的にそれらの何を見ていたのかについては現時点では明らかにされておら

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