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― 443 ―ず、今後の調査課題として残っているものの、少なくともそれ以前に比べ土偶や埴輪を目にする機会が増えたと考えられる。なぜなら、考古資料を収蔵する国立民族博物館はジャコメッティが足繁く通った場所であったからである。日仏文化協定調停から10年を経た1963年には、日本美術史を概観するだけではなく、日本芸術の根底にある精神性を探る試みが、フランスの研究者らによって行われる。それが、旧蔵書に図録が含まれる「日本古美術展L'Au-delà dans l'art japonais」である。彫刻では考古資料や一木彫像が多数出品され、絵画では当時のヨーロッパで最も網羅的に禅画が紹介された。本展を構想したのは当時の文部大臣で作家のアンドレ・マルロー(André Malraux 1901-1977 )であり、作品選定を行ったのは当時フランス・アカデミーの分館であるヴィラ・メディチ館長で画家のバルテュス(Balthus1908-2001)であったが、二人はともに、ジャコメッティの仕事を長きにわたり理解し、称賛する非常に親しい友人たちであったことは、注目すべき点であろう。日本の精神性を探るというテーマは、当時のフランスの知識階級及び芸術家たちの関心を克明に写しだすものでもあった。当時は、彼らの間で禅思想への関心が急速に広まった時期に当たり、さらに彼らは古典芸能をその源である神事と関連させて見、書道や茶道、及び華道を知ることで、その背景にある精神性に思いを馳せていたからである。それは19世紀後半以降、浮世絵を中心にして築かれたそれまでの日本観とは、まったく異なる関心の在り様を引き起こすものであった。芸術家が日本文化に触れて、自らの作品の中でそれを昇華するとき、それはもはや画中に浮世絵で描かれた着物を纏う西洋の人物を描くことだけではなくなっていた。西洋、東洋の対立項自体を無化する考えを持っていたジャコメッティにおいてはそれが顕著に現れてきているといえよう。作家ジャン・ジュネを交えた対話の中で、ジュネが「日本人がいかにヨーロッパのものを模倣したとしても日本的なものしか作れないのと同様、ヨーロッパ人が日本的なものを模倣してもヨーロッパ的なものしか作れない」と言うのに対しジャコメッティは「真に偉大な作品にあっては、東洋的とか西洋的とかいうことは問題にならない」「レンブラントとピカソはともに西欧的かもしれないが、この二人の距離よりはレンブラントと北斎の距離のほうが遥かに近い(注13)」と答えている。生きた人間が眼前に現れたときに認識される、相手が生きているという確証こそ作品に表現したいと望んだジャコメッティは、見えるものを見える通りに再現することを目指していた。従って、見えるものの代わりに知っていることでそれを補って再現しているギリシャ・ローマ以来の彫刻を否定していた。というのもそれは本来見えな

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