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― 36 ―④グリューネヴァルト作〈イーゼンハイム祭壇画〉に関する研究─《受胎告知》の背景を中心に─研 究 者:神戸大学大学院 人文学研究科 博士課程後期課程  大 杉 千 尋はじめに16世紀ドイツの画家グリューネヴァルト(注1)は1512年から1516年の間に、フランス、アルザス地方にあるイーゼンハイムの町の聖アントニウス律修参事会(以下アントニウス会)修道院付属教会のために三面からなる多翼祭壇画を製作した。現在この祭壇画は同地方のコルマールにあるウンターリンデン美術館に所蔵され、〈イーゼンハイム祭壇画〉の名で知られている(注2) 〔図1〕。本稿はこの〈イーゼンハイム祭壇画〉の第二面左翼《受胎告知》〔図2〕について、特にその背景の舞台設定を中心に考察するものである。1.祭壇画成立の背景本題に入る前に、〈イーゼンハイム祭壇画〉が制作当時置かれていた状況を整理しておく。アントニウス会は現在のフランス、イゼール県にあるサンタントワーヌ・ラベイ(旧名ラ・モット・オ・ボワ)に本院を置く施療修道会であった。1070年頃にこの地にエジプトの聖アントニウスの遺骨が奉遷されたことが修道会設立のきっかけとされている(注3)。当初は世俗の慈善団体として発足したが、1247年に教皇インノケンティウス4世によって正式な修道会として認められた。彼らは「聖アントニウスの火」と呼ばれた病を専門に治療することで様々な特権を得た。「聖アントニウスの火」は、現在でいう麦角中毒に概ね該当する。その症状は麦角菌に感染した小麦を摂取することにより引き起こされる食中毒の一種であり、四肢の壊疽、痙攣、幻覚を引き起こした。修道会はこれを専門的に治療することによって全ヨーロッパに勢力を拡大した。修道会は来訪する患者たちに対して薬や聖アントニウスの聖遺物に浸したワインを与え、時には壊疽した部分を切断する外科手術も行った。しかしその後医学や穀物の保存技術の発達により「聖アントニウスの火」の流行は終息し、1777年にアントニウス会はマルタ騎士団に併合され、独立した修道会としては消滅した。イーゼンハイムの町はフランス東部のオー・ラン県に位置する人口3000人程度の小村であるが、祭壇画制作当時はサンティアゴ・デ・コンポステーラやローマに詣でる

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