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― 450 ―ニュートラルなものとしているようだ。群衆から特定の人物を際立たせる手法はいくらでもあり、画家がそれを発案できなかったとは考えにくい。以下では、まず挿絵の特異な文字表現に着目し、その着想源を探る。つづいて、群衆のなかに埋没する主人公の描き方がどういった意図から発しているのか考察したい。2.文字の表現とギュスターヴ・ドレ本プログラムの画面では、文字の存在が異様に目立つ。それは前作のイプセン劇『ロスメルスホルム』〔図4〕のプログラムや、『民衆の敵』につづいて制作されたゲアハルト・ハウプトマンの劇『寂しき人々』〔図5〕のためのプログラムと比較しても明らかだ。『ロスメルスホルム』では、陰影を排した線描による図のなかに、図を形成する線と同様の筆致で文字要素も書き込まれている。さらに文字の一部が図の一部と接することで(たとえば劇団名を表す「LʼŒuvre」のLの文字は、窓枠の一部も兼ねている)、図と文字は融合する。『寂しき人々』では、図はリトクレヨンで描かれ、文字は筆によって、配役の部分を除いて図の上に重ねられて記される。全体の傾向として、ヴュイヤールは徐々に文字と図を区分するようになるが、画家は両要素をいかに構成するか模索しつづけ、それは1895年以降に、プログラムが文字部分に主として植字を採用するようになるまで続く。なかでも『民衆の敵』のテキスト部分は特徴的であり、周りに描かれる群衆のイメージに混ざり込みながら、彼ら以上の存在感を持っている。それは一部の文字が、人物の顔を形作る線と重なっている点からも窺える〔図2〕。これは判じ絵のヴァリエーションとみなせるだろう(注4)。ここには一種の喜劇性が看取されるが、この喜劇性は、後で述べるように、戯曲の本質的な性格とも合致するものである。この文字の表現は、同時代のシェレのイメージにみられる躍動的な文字表現に帰されるかもしれない〔図6〕。だが彼らの作品に記される文字は、ヴュイヤールの挿絵ほどにイメージとの混合をなしてはいない。そしてその点が、本作と、同時代に隆盛する、シェレを筆頭としたカラー・リトグラフのポスター芸術の様式傾向とを隔てる、些細であるように見えながら重要な点と思われる。本作と同様の性質は、むしろロマン派の時代の挿絵における文字表現に遡れないだろうか。ここではあえて、ギュスターヴ・ドレの挿絵を引き合いに出してみたい。ドレは生前、挿絵家として名声を得、1883年に没したのちも、画家のあいだで彼の

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