― 452 ―であろう着想を考察することは、ヴュイヤールがひろく演劇を介して向き合うこととなった、主題と造形に対する問題の射程を知るうえで意義があるだろう。ここで考察した表現の特異性は、むしろフェリックス・ヴァロットンの1894年のプログラム挿絵に引き継がれているのかもしれない〔図10〕。それでは次に、第二の問題である、挿絵における主人公ストックマンの描写の特徴について考察をすすめよう。3.主人公の描写における喜劇性制作座は1899年にイプセンの『民衆の敵』を再演している。この上演時のプログラム挿絵を任されたのは、テオフィル=アレクサンドル・スタンランであった〔図11〕。ヴュイヤールの手がけたプログラムとスタンランのそれとは、興味深い対比をなしている。両者はともに町民会の場面を描き、主人公ストックマンを群衆が取り囲む構図をとっているが、ヴュイヤールとは対照的に、スタンランは主人公をひとり高い位置に据えた。腕を挙げて叫ぶ群衆の勢いに抗するように台(配役を記すスペースを兼ねる)に片手をつきながらも、背筋をのばし、毅然とした様子で佇むストックマンは頭部から微光をはなち、群衆にひとり立ち向かう孤高の人、悲劇の英雄を想起させる。戯曲中の有名な科白、「世界でいちばん強いのは、たった一人でいる人間だ」を体現しているといえよう。この構図の類型は、猫のリーダーを描いたスタンランの油彩画にも看取できる〔図12〕。こうしたスタンランの挿絵との比較が浮かび上がらせるのは、ヴュイヤールの挿絵がもつ特殊で曖昧な性格である。ヴュイヤールの描くストックマンは、群衆のなかに埋もれながら、彼らと同じ様に腕を振って大声を発している。さらにストックマンの容貌は、彼を取り囲む人々と大差ないごく簡素な線描で描かれる。彼は孤高の英雄像というより、周囲の騒動に巻き込まれるどたばた喜劇の主人公のような、戯画的な滑稽さを帯びている。いみじくも、本挿絵に潜むカリカチュア的な性格についてはP. E. ボイヤーも言及している(注8)。この点において、本作はヴュイヤールの1890年代初頭(1890-92年頃)のいくつかのスケッチと結びつけることができるだろう〔図13〕。こうしたヴュイヤールの主人公の扱いは、興味深いことにある意味でスタンランよりもイプセンの意図を汲んでいるとみなすことができる。劇曲における、それぞれの登場人物になされた極端な性格設定、現実の認識が歪曲していく物語の展開のみならず、とりわけ集会シーンはシリアスな場面というよりも、酒酔いの闖入や野次の挿入
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