― 453 ―によって、形式的にもどたばた喜劇に近づいている。そもそもイプセン自身、この戯曲を「喜劇的性格にあふれている」と見なしていたらしい。ただし、悲劇に通じうる主題があることも認め、これを「喜劇と呼ぶべきか、劇と呼ぶべきか」迷っていた(注9)。実際、ストックマンもあまりに理想主義的で実直、楽観的な性格に描かれ、苦悩する英雄像とも言い難い。スタンランが挿絵にごく直接的なヒロイズムを表現したのに対し、ヴュイヤールは戯画的な描写によって挿絵に劇曲のもつ喜劇的な性格を付したといえるかもしれない。それでは、この喜劇性は何に由来するのか、以下では当時の社会状況とヴュイヤールの政治的な立場を視野にいれて考察を試みたい。4.1890年代初頭とアナーキスム『民衆の敵』が上演された1893年とは、「lʼère des attentats(テロの時代)」と呼ばれる1892-1894年の真っ只中であった。制作座の第一シーズンはアナーキスムの歴史においても決定的な時代と重なる。『民衆の敵』上演から一ヶ月もたたない1893年12月には、オーギュスト・ヴァイヤンによってブルボン宮(下院)に爆弾が投げ込まれ、この影響で四日後には、制作座による『寂しき人々』の公演がパリ警視庁によって禁止される。翌年4月の『棟梁ソルネス』上演時、講演者として登壇していたローラン・タイヤード(彼は『民衆の敵』の幕前講演者でもある)は、その翌日にレストラン、フォワイヨでの爆弾事件に巻き込まれて片目を失った。その年の6月にはカルノー首相がアナーキストの青年によって暗殺される。1890年代初頭の象徴派が「芸術のための芸術」を掲げ、政治への無関心を標榜していたのに対し、1893年にもなると文学界でも政治的な議論が増々介入してくる。そのようななか、イプセン劇とアナーキスム思想とのあいだに親和性が看取されるようになる。1893年末に、先に触れたテロ犯ヴァイヤンが裁判において証人に挙げたのは、文学者オクターヴ・ミルボーとイプセンの名であった(注10)。親アナーキストであったタイヤードの言葉を借りるなら、『民衆の敵』で「イプセンは宗教的な寸言や慣習的な道徳に対抗した。(中略)個人のみが存在する。集団や民衆は存在しない。というのも、民衆とはしつけの悪い人々の無知な集団に過ぎないのだから」(注11)。ここにはギュスターヴ・ル・ボンによる『群集心理』(1895年)につながってゆくであろう、当時の「群衆」の盲目性に対する不信も読み取れる。さらにルイ・ロルメルは『芸術とアナーキスム』と題した記事のなかで、「われわれの個人主義は、ストックマン博士、すなわち民衆の敵のそれである。ローラン・タイヤードがいみじく
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