― 37 ―巡礼路の途上にあって数多くの人々が修道院を訪れた(注4)。祭壇画が設置された教会は修道院の北側にあり巡礼路に面している〔図3〕。現在修道院の遺構はリヴォーヴィレの神の御摂理修道女会が運営する女子修道院になっており、教会の身廊の一部と内陣部分の基礎のみが現存している〔図4〕。修道院の正確な創建年は不明であるが、概ね13世紀の前半から半ばにかけてのことであったと思われる(注5)。当初は内陣の主祭壇であった可能性が高い(注6)。グリューネヴァルトの祭壇画制作より前に、修道院長ジャン・ドルリエの注文でストラスブールの彫刻家ニコラス・ハーゲナウがシュライン部分を1490年頃に制作している。その後新たに修道院長に就任したギ・ゲルシがグリューネヴァルトに改めてシュラインを包むパネルを作らせた。ジャン・ドルリエはイーゼンハイム近郊の町エンシスハイムにおいてブルゴーニュ宮廷の出先機関である市参事会の会員であり(注7)、ブルゴーニュの元帥の息子とも繋がりがあったようだ(注8)。次の修道院長ギ・ゲルシは従来シチリア出身のイタリア人と考えられてきたが(注9)、近年の研究の結果フランスのドーフィネ出身である可能性が高いことが明らかになった。彼の紋章に百合の花が表されていることからアンジュー家ゆかりのシチリアが彼の出身地として推定されたのだが、実際シチリアは1442年にアンジュー家の支配から脱しているためこの仮説は成立せず、一方祭壇画が制作された1512-1516年の間にアンジュー家の所領であった地域の一つであるドーフィネには13-15世紀にかけてGuersi家についての記録が見え、これがギ・ゲルシの出自であると考えられるようになった(注10)。また、イーゼンハイムの領主で修道院の代官(注11)でもあったペーター・フォン・メレスブルクは1469年にブルゴーニュ公シャルルとオーストリア公ジギスムントとの間のサン・トメール条約締結の際に全権大使として派遣されたことから、ブルゴーニュ宮廷と強い関わりを持っていたと思われる(注12)。このように、〈イーゼンハイム祭壇画〉の解釈において、アントニウス会本院がドーフィネ地方にあったという事実も含め、フランス語圏との関わりは無視できない。2.〈イーゼンハイム祭壇画〉《受胎告知》本作品は縦292cm、横167cmの逆L字型の画面であり、祭壇画の第二面左翼を占めている。向かって右から黄色の衣と赤色の肩衣を身につけた大天使ガブリエルが入ってくる。聖母マリアは向かって左で床に跪き、ガブリエルから上半身を遠ざけている。二人の間の箱の上には二冊の本が置かれているが、そのうち一冊は開かれていて、“Ecce virgo concipiet et pariet filium et vocabitur nomen ejus emanuel. But(y)rum et mel
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