― 461 ―なお『京羽二重』(水雲堂狐松子著、1685年刊)巻六には「佛繪師」として「室町誓願寺下ル町 木村了琢法橋/室町にしき上ル町 木村左京/錦小路室町西へ入 同徳應/たこやくし室町東へ入 永玄」とある。了琢は日光東照宮の御用をもっぱらにし、その名は明治年間まで13代にわたり継承されたことが知られる(注2)。左京は徳悦の継承者とみてよく(注3)、貞綱は「阿弥陀聖衆来迎図屏風」(法然院)の「徳応二世」の印により徳応の継承者であることが確認されており、本書にいう徳応は貞綱かと考えられる。したがって徳悦、徳応とも数代続いたと思われるものの、了琢のような詳細は不明である。また、『京羽二重』は彼らの姓を木村とする。ただし、管見の限り、三人いずれも自身で署名などに木村を名のっている例は確認していない。また、『古画備考』(朝岡興禎著、1850年頃)巻二四・名画に「絵所法眼徳悦」「徳応」「絵所貞綱」として載るが、互いに関係のある画家としては認識されていない。(二)三人の肖像画様式三人の肖像画様式は、基本的な表現は共通する。しかし、線質、色の扱い、細部の形状の変化などにより全体の印象は少しずつ異なる。まず徳悦の肖像画様式を、従来紹介されている唯一の肖像画である「速伝宗販像」(1609年鉄山宗鈍着賛、北九州市・開善寺)〔図1〕に確認する。徳応、貞綱の様式を考える上で基本となるため、面貌を中心に少し詳しくみていく。顔〔図2〕や手は輪郭を淡墨線でとり、目鼻の輪郭はその一部に赤茶の線を重ねる、あるいは一部を赤茶線で描く。上瞼、小鼻の鼻腔、唇の界線、耳のしわのU字形の部分に濃墨を用いる。額の皺は中央と左右に分け、中央は下向きの弧線、左右は上向きの弧線をほぼ平行に三本ずつ引く。眉間の皺を二本の縦線で示す。眉は短線を重ねる。目は上下部瞼ともに弧線でかたどり、瞳に茶色を塗り、白目は両端を少し残して白く塗る。右目は顔の輪郭線によって途切れ、すべては描かれない。眼窩は眉の下から目の下まで大きなCもしくは逆C字形を描くようにいれ、目の下で一旦切った後、その少し上に短めの線を加える。目尻に三本の皺をつける。鼻梁は目尻より高い位置から、右目の眼窩の線に平行するように引き始め、鼻先でわずかに下向きに下がる。小鼻は左側しか描かない。ほうれい線は左右とも長短二本を引く。唇は淡墨線の上に朱線を重ねて輪郭をとり、内側を朱で淡く塗る。唇と顎の間に上向きの弧線をいれる。衣は濃墨で、面貌より太く、多少の肥痩はあるが打ち込みはない抑制された力強い線による。曲彔にかかる法披、沓脱台、沓などは、面貌と衣の中間程度の太さの線で丁寧にかたどり、そこに鮮やかな色を多用し細密な文様を描き込む。随所に金泥が用いられる。なお、後述
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