― 464 ―●制作年不詳、「溝口秀勝像」(新発田市・宝光寺)、〈絵所法眼/徳悦筆〉○制作年不詳、「妙実小人像厨子扉板絵不動明王像・毘沙門天像」(京都市・立本寺本堂)、〈絵所法眼徳悦〉○詳細未確認、「千手観音・地蔵・毘沙門天像」一幅(京都市・智積院)以上から、前述の通り少なくとも35年間の活動が確認できる。そのため、これらが二代以上にわたる画事である可能性も考えるべきだろうが、管見の範囲の様式、落款等の書体による限り一人とみておきたい。徳悦筆の肖像画として従来知られていたのは「速伝宗販像」一点であったが、他に二点を確認できた。「速伝像」の像主(?~1599)は飯田市の開善寺中興開山で妙心寺六一世となった高僧。本図は没後十年に筠州景法が鉄山に請賛しており、着賛年と賛の内容から、当初、信州にあり、後に筠州が北九州に移った際に伴ったものと推定される(注8)。そして「斯波(津川)義近像」(注9)の像主(1540~1600)は尾張守護の斯波家24代で、織田信長、豊臣秀吉政権下で活動した。曲彔に坐る法体の人物、そして人物の左下に止まり木上の鷹をあらわす。賛によれば鷹は愛玩のものという。注文主は不明だが、着賛年は三十三回忌にあたる。所蔵先の大龍院は、義近が生前天正3年(1575)に一族の東庵宗暾を開山に創建した衡陽院が斯波氏の滅亡により廃れ、天正17年(1589)に密宗宗顕が鉄山宗鈍の援助を得て中興開山となって再興した大領(嶺)院が、後に合併された塔頭である(注10)。「速伝像」の賛者である鉄山が中興に関与しており、彼および妙心寺に関わるネットワークのなかで徳悦が肖像画制作を行っていたことが推測される。画面裏面に徳悦の墨書銘がある。「溝口秀勝像」〔図5〕の像主(1548~1610)は、尾張国に生まれ丹羽長秀、信長、秀吉そして徳川家に仕え、越後新発田藩初代藩主となった。本図は、賛はなく画面上部に「溝口氏前伯州太守源秀勝公/法名性翁浄見大居士遺像」とある。所蔵先は菩提寺で、当時は浄見寺と称していたのを後に宝光寺と改めた。上畳の上に五位以下の赤袍を着した束帯姿で右手に杓をもち左手は刀に添える姿である。「速伝像」と顔〔図6〕の各部分の形状や配置、描写はほぼ同じであるが、俗人像であり肌の色が「速伝像」と異なり、厚塗りでもなく、顔の各部分に赤茶色の線が多用されている。力強い輪郭線でかたどり、細緻な文様を丁寧に描き込んだ衣との対照で、顔の繊細な表現が際立ち、迫真性のある優れた肖像画となっている。なお、旧表装で紙背に書されていたとみなせる墨書銘〔図7〕が裏面に貼付される。つまり、当初は「義近像」と同様の体裁であったと思われる。また、書体は「速伝像」の落款〔図8〕と特徴が一致し、
元のページ ../index.html#474