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― 465 ―同一人物の手になるとみたい。以上の徳悦筆の肖像画、既述の作風を踏まえると、落款や墨書銘はなくとも徳悦筆の可能性を考えさせる肖像画がみいだせる。「織田有楽斎像」(1622年古澗慈稽着賛、京都市・正伝永源院)は「速伝宗販像」と面貌の細部、衣文線の様子、衣の文様などがきわめて類似し徳悦筆とみてよいと考えている(注11)。ちなみに斯波義近の次男・津川近治(?~1614)は有楽(長益・1547~1622)の娘を妻としており、有楽の孫である長好(1617~51)が請賛者である「有楽像」はこの縁戚関係からも徳悦が関わる可能性があり得るといえるかもしれない。他にも徳悦筆の可能性を検討してよいと思われる肖像画は管見でも数点あり、その考察は今後の課題である。(四)むすびにかえて─絵仏師と他派絵仏師の肖像画は、他の画派を考える上でもさまざまに関わってくる。まず、[絵仏師の肖像画様式]は、長谷川等伯(1539~1610)のそれに通じる。等伯の画業が絵仏師として始まったことからすれば当然といえるだろう。しかし、等伯が京へ出た頃のたとえば「日堯上人像」(1572年、京都市・本法寺)では線質や目鼻の描法などに絵仏師のそれとの類似性が高いのに対して、最晩年の「玉甫紹琮像」(1609年自賛、京都市・高桐院)では打ち込み、肥痩などの抑揚のある線を用い、面貌をより個性的に描き出し、衣文に陰影をつけることも行っている。つまり、等伯による肖像画は、京で狩野派など他派に学び、水墨画の修練を積み、顧客の要求に応じるなかで、いかにも絵仏師的なものから、独自な様式へと変化していったといえる(注12)。また、既述のように[絵仏師の肖像画様式]は中世の通例であった表現を継承しており、そのために近世以前の狩野派や土佐派にも類似した様式がみられる場合がある。しかし、狩野派は元信(1476?~1559)の頃から絵仏師とは異なる流麗で抑揚のある線を積極的に用い、代々の画家がその方向で工夫を重ねた。それが、やがて探幽(1602~74)がでて、量感や質感を線そのものがあらわすような表現、あるいは短い線をつらねてスケッチ風に面貌をかたどるなどの新しい様式を提示し、近世の狩野派ならではの肖像画が確立されていく(注13)。こうした長谷川等伯、狩野派の肖像画のありようと照らし合わせると、絵仏師のそれは中世以来の肖像画の伝統的な描法を守ったものとあらためていえる。ただし、絵仏師においても徳悦と貞綱の違いに明白であるように時代に応じた変化はあった。そして、貞綱は探幽よりもやや年少かと推測されるが、その活動の方向性、作風などは、

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