― 466 ―探幽の特徴である軽快さや淡麗さと通いあう。つまり、探幽がくみとって自己様式に反映させた時代の嗜好を、貞綱もまた踏まえつつ、探幽が主導する画壇の動向にも対応し、自身の様式を形成し、旺盛な活動で当時の絵仏師の肖像画制作を主導し、多くの秀作をのこしたと推測される。その点で、貞綱は絵仏師界の探幽にあたる存在といえるだろう。徳悦の画歴として挙げた南禅寺三門では、探幽が天井画の天女や鳳凰を描き、徳悦は柱や梁の装飾文および羅漢像の彩色を担当と推測されている(注14)。このような画家としての格の違い、担当領域の棲み分けはあったにせよ、それぞれの活躍があって当時の画壇は成り立っていた。そのような認識のもと、今後も「絵仏師のいる近世肖像画」の研究をすすめていきたい。注⑴本稿で扱う三人の絵仏師についての主要な研究は下記の通り。西村貞『黄檗画像志』創元社、1934年。楢崎宗重「徳應筆 隠元自題法像」『國華』776、1956年。秋山光和「平等院鳳凰堂絵画の研究」『平等院大観 第三巻 絵画』岩波書店、1992年。同「絵所左京徳悦の画業と後継者左近貞綱徳栄」『修理完成記念 東寺の十二神将像─モデリングの妙』東寺(教王護国寺)宝物館、1998年。樋口智之「特論 洞水東初像四幅を描いた絵所左近について」『(展覧会図録)武家と禅─伊達氏とみちのくの禅宗寺院─』仙台市博物館、2003年。同「絵仏師徳応・貞綱の肖像画制作について─瑞巌寺僧関係作品を中心に─」『仙台市博物館調査研究報告』25、2005年。渡邊雄二「近世の絵仏師─忘れられた画家たち─」『(展覧会図録)近世の絵仏師展』福岡市美術館、2004年。同「萬福寺の涅槃図の作者徳応について」『黄檗文華』125、2005年。⑵大西芳雄「絵仏師木村了琢─東照宮深秘の壁画について─」『東京国立博物館紀要』10、1975年。⑶『三縁山志』(1819年序)巻二に徳悦の住まいを「京四条室町通山伏町」とするが、これが『京羽二重』左京の住まいと同じ位置、すなわち現在の山伏山町を指すとみなせること、そして後述するように徳悦が「左京」を称していたことから、推測できる。⑷注⑴渡邊論文「近世の絵仏師─忘れられた画家たち─」および展覧会は、その重要な研究である。また、『(展覧会図録)妙心寺』(読売新聞社、2009年)において田沢裕賀氏が複数の作品解説に「木村姓の絵仏師」による可能性を明記されることも同様である。⑸渡邊氏(注⑴論文「近世の絵仏師─忘れられた画家たち─」)は了琢が四代になってはじめて法橋に叙されていることから、徳悦の頃は彼が「宗家」的な立場であったかと推測されている。また「土佐」、徳悦ら三人が称する「絵所」は、永禄8年(1565)頃に東寺絵仏師職を狩野派と争いその地位を得た木村新五郎(土佐左京亮源正久と同一人物か)が彼らの祖である可能性(宮島新一『宮廷画壇史の研究』至文堂、1996年)と関わるだろう。実際、徳悦はその画業の初期と思われる時期に東寺の仕事をしている。⑹一八五「増上寺文殊菩薩騎獅像」、久野健編『関東彫刻の研究』学生社、1964年。⑺浅湫毅「御影作り候て三門に立て申すべきこと─以心崇伝と南禅寺三門」『(展覧会図録)南
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