tsuto
482/639

― 472 ―己の自覚、③父なる神への救済の期待の3点となる。加えて、この詩のWho shall deliver me? というタイトルは、聖書の「ローマの信徒への手紙」七・二四に登場する次の文言を典拠としている。O wretched man that I am! Who shall deliver me from the body of this death?“Romans”, 7-24(傍線は筆者による:注5)わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。「ローマの信徒への手紙」七・二四(傍線は筆者による:注6)この英訳は、1611年、ジェームズ1世の命によってイングランド国教会の典礼で用いるための標準訳として作成された欽定訳版聖書のものである。重要なのは、この文言が「ローマの信徒への手紙」七・七-二五、「内在する罪の問題」と題された項にあることだ。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。「ローマの信徒への手紙」七・一七(傍線は筆者による:注7)この文言が示す通り、この項は、自己の内に罪の存在を認める内容である。「誰が私を救うべき」の、制御し得ぬもう一人の自己を自らの内に自覚するという内容は、ここから展開されたものと考えられる。「その作品がまさにショーペンハウエルが表明したような厭世主義の美学に一致する唯一の人」(注8)とも称されたクノップフは、以上確認したなかで、クリスティ―ナ・ロセッティの詩にみられる外界からの逃避願望といった①②には共感を覚えたのであろう。だが、③のキリスト教的要素については詩人と異なる立場をとったのではないか。《私》とほとんど同じ頃に制作され詩のタイトルを冠した《誰が私を救うべき》(1891)〔図2:CR 191〕をみても、街の通りとも、あるいは塀に囲われた閉鎖的な空間ともとれる場所から観者をみつめる画中の女性の眼差しには、宗教的敬虔さよりも挑発的な要素が強く表れている。

元のページ  ../index.html#482

このブックを見る