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― 474 ―鏡やピアノ、都市ブリュージュといったモチーフの導入は、クノップフが、クリスティーナ・ロセッティの詩に表れた自閉的性格を自らの造形語彙で絵画化したことを示唆している。4.《私は私自身の上に扉を閉ざす》─自己の二面性加えて、ロセッティの詩は「厳格な内省と自己監視の道を歩み」(注13)始めている。今一度「誰が私を救うべき」に戻ると、「私」はまず、外界からの逃避を望み、自己の内部へと閉じこもるメランコリーに囚われている。かつ堕落へと誘い「私」を誘惑する存在でもあり、自分自身の敵であり、友でもある。これは、世紀末の流行であった「宿命の女」、堕落へと誘う誘惑者たる女と、その誘惑に魅了され、ときには屈することになる男という関係性が、一人の人間の内部で成立していることをうかがわせる。さらに言えば、19世紀に研究が進んだ、意識と無意識の関係にも比しうる自己の二面性をも読み取りうる。《私》の女性の頬杖をつく姿勢は、何よりもまず彼女がメランコリーに沈んでいることを観者に訴えかけるが、このメランコリーは、ロセッティの詩に則るならば、誘惑を受けたことで生じたもの、つまり被誘惑者の側に属すべきものだ。ところがその眼は、挑発的にこちらを見ているとも視線を空に彷徨わせているともみえ、黒目が細いネコ科の獣の瞳を連想させる。世紀末、猫は、ボードレールの「猫」と題された詩などが示す通り、「宿命の女」に結びついていた。よって《私》の女性のこの眼は、誘惑者に属するものである。そして髪が赤毛であるということも重要だ。西洋において、赤毛は歴史的にネガティヴなイメージを付与されてきた。しかしながら、この赤毛のイメージが、世紀末に大きく転換する(注14)。モリスやバーン=ジョーンズやその他の人々は、かつては全く厭わしいものとされたある種の顔や姿を、今や流行のタイプにした。かつてはある女性が赤毛だということは、その女性の社会的生命を絶つことに等しかったが、今では赤い髪は熱狂的にもてはやされている。ホーイス夫人『美容の技術』(1878)(注15)忌むべき赤毛が、「宿命の女」という倒錯的なモチーフの描写においてはプラスに働いたのだ。最も赤毛への偏愛を示したのはラファエル前派で、大のイギリス贔屓でありラファエル前派にも大きく影響を受けたクノップフは、この赤毛を好む嗜好も受

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