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― 475 ―け継いだ。恋に身を焦がしレウカディアの岬から投身自殺をはかったという女詩人を描いた《サッフォー》など、自作の「宿命の女」の髪の毛を赤毛にしている。よってこの赤毛という髪の色もまた、誘惑者のものと考えられる。次に服装だが、《私》の女性の衣服は装飾の無い質素なもので、ほとんど肌の露出はない。これは19世紀当時の女性たちの一般的な服装に属するものと考えられ、クノップフの作品では、《マルグリットの肖像》(1887)〔図5:CR 100〕の白い衣服のような、簡素なものが最も近い。ただし、《私》の女性が右袖をまくりあげているという点は留意すべきである。というのもクノップフは、自作において服装とそれをまとう人物の性格とを関連づけているのだ。例えば、裸婦は基本的に悪女である。これは肉体的魅力が彼女らの武器であることによるのであろう。一方巫女らしき女性については、全く身体の線の出ないガウンを着用しており、《沈黙》(1890)〔図6:CR151〕では、天使は手袋できっちりと指先まで覆われてさえいる。《マルグリットの肖像》でも、祭壇めいた枠組の中に置かれ一種の聖化がなされたマルグリットは手袋で指先を覆っている。この簡素なドレスもまた、クノップフにとっては神聖さや貞潔に結びつく人物の持物なのだ。しかし《私》では、このドレスの袖がまくりあげられているために、《沈黙》や《マルグリットの肖像》ほど、肌を隠し着用者の貞潔を示すような役割を担っていない。つまり《私》の女性は、身につけた衣服は、この女性が貞潔と結びつくことを示しているものの、その着こなしはむしろ女性が反対の性質を有することを示唆する。要するにこの女性は、誘惑者の特徴と被誘惑者の特徴の両方を有する、二面性をもった人物なのだ。これはすでに確認した、ロセッティの詩の「私」の在り様に重なる。5.《私は私自身の上に扉を閉ざす》─救済最後に救済について考察する。ロセッティの詩では、救いをもたらすのはキリスト教の父なる神であった。一方《私》には、眠りを司るギリシア神話の神ヒュプノスが登場する。ここには救済の希求という点においてキリスト教的思考を示した詩人とクノップフの違いが明確に表れている。モリセイは、クリスティーナ・ロセッティにとって救済は宗教的な信仰心によってもたらされるのに対し、クノップフにとってはより深く個々の精神生活を探ることによってもたらされるのだと指摘し、その思考にフロイトの『夢判断』(1900)の前触れを読み取っている(注16)。筆者は既に、クノップフの《愛撫》〔図7:CR 275〕において、画中の銘文「私の夢はこの現実を修繕するだろう」を解読し、人物とスフィンクスによって示されるのっぴきならない現実か

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