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― 505 ―㊼ 岡田玉山研究─歌川国芳、葛飾北斎への影響をめぐって─研 究 者:神戸市立博物館 学芸員  中 山 創 太はじめに岡田玉山は18世紀後期から19世紀初めにかけて、大坂で活躍した絵師である。主に版本の挿絵を手掛け、なかでも『絵本太閤記』(寛政9年・1797初編刊行)は彼の代表的な作品といえる。『浮世絵類考』には、玉山は「板刻密画の祖」と評されており、画面を埋め尽くすようにモチーフを描き込む絵師として認識されていたことが窺える。そのような中で、中野志保氏は、玉山を中心とする上方絵師が中国で刊行された版本を参考に密画様式を確立していたことを示唆し、加えて文化期(1804-17)初期の江戸読本への影響を指摘している(注1)。一方、文政期(1818-29)末頃から、武者絵を確立していく江戸の浮世絵師歌川国芳の作品には、玉山の挿絵を転用している作例を見出せるのである(注2)。玉山の活動は、上方のみならず江戸を含めた浮世絵史を考える上で興味深いものといえよう。しかし、玉山の研究は、書肆学的な視点から語られることが多く、彼の画業や画風の展開といった美術史的視点からの考察は多いとはいえない。そこで、本稿では玉山の版本挿絵を中心に画風の展開を考察するとともに、江戸の浮世絵師にどのように受容されていたのかを明らかにしたい。はじめに、「大坂本屋仲間記録」などの史料や玉山自身が記した跋文を手がかかりに彼の画業を整理するとともに、版本挿絵から画風の変遷をたどる。なかでも、玉山は、「動き」の表現に富む挿絵を描いていたことを指摘していく。さいごに、国芳や北斎が玉山の挿絵を転用していたことを指摘するとともに、三者の「動き」の表現について述べていくことにする。第一章 玉山の画業玉山の姓は「岡田」、名は「尚友」、字は「子徳」、号は「金陵斎」。なお、玉山の姓を「石田」と記す文献がみられるものの、門人の二代石田玉山と混同した情報と思われる(注3)。生年は『浮世絵類考』に元文2年(1737)とあるが、それを裏付ける資料はない。没年は同書に「文化九年没七六歳」とあるが、山本卓氏が指摘する「大坂本屋仲間記録」および『新板願出印形帳』には、文化5年(1808)4月出願の『女

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