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― 506 ―年中文章』(開板人勝尾屋六兵衛)に「作者故人岡田玉山」とある(注4、なお『新板願出印形帳』の玉山関連箇所は表1を参照)。それより一つ前の出願、同3年2月の『月花惟孝』(開板人加賀屋彌助)には「作者南本町五丁目岡田玉山」とあることから、玉山の没年は文化3年2月から同5年4月の間であった可能性が示唆される。ちなみに、『開板御願書扣』などから、北渡邊町、南久太郎町5丁目、同6丁目、南本町5丁目に居所を構えていたことが確認できる。玉山は晩年まで大坂で制作に取り組んでいることからも、絵師伝に散見される晩年を江戸で過ごしたという記載は誤りと考えられる。一方、玉山の画業は不明な点が多く、法橋位を得る以前の活動に関する史料、作品を確認できていない。また、上方で活躍した月岡雪鼎(享保11-天明6年・1726-86)、あるいは蔀関月(延享4-寛政9年・1747-97)のもとで絵を学んだとされるが、この点も判然としない。いずれにしても、雪鼎一門の画系に連なる絵師であったことは間違いない。玉山の活動を示す最初期の史料は、『開板御願書扣』の天明7年(1787)6月出願『女教訓小倉織』、『百人一首玉容色紙』(いずれも開板人平野屋半右衛門)であり、そこには「画工南本町壱丁目法橋岡田玉山」とある(注5)。両書ともに現存作品を確認できておらず、天明年間に刊行された『唐土廿四孝』(天明7年11月出願)が現在確認できる玉山の初期作品の一つと考えられる(注6)。先に挙げた「大坂本屋仲間記録」から、玉山没後も彼が挿絵を担当した作品が刊行されていたり、松川半山などの後代に活躍した絵師に引き継がれていたりする作例もみられる。『校訂伊勢物語図会』(文政8年・1825刊行)の市岡猛彦による序文(文政6年著)には「画は名にたかき難波人法橋玉山が筆なり」とあり、玉山没後も彼の版本挿絵を求めた需要者の存在が窺い知れよう(注7)。なお、玉山は版本挿絵とともに、肉筆画の制作にも携わっていたようである。《月下美人図》(東京国立博物館蔵)をはじめ数点確認されているが(注8)、いずれの作品にも、落款には「法橋」と記されている。この点からも現在確認できる玉山の肉筆画は天明期以降の制作と考えられよう。《月下美人図》は、師とされる雪鼎風の丸味を帯びた顔の描写をよく受け継いでいる。また、人物の輪郭線に墨と朱の二本の線を用いて顔の肉感を表していたり、着物の意匠を精緻に描いたりと、細部まで趣向を凝らした作品を残している。金や銀などの顔料を使用する例もみられ、非常に豪華な作品も確認できる。現存する肉筆画から、玉山の技量が確かなものであったことは明らかといってよい。玉山の肉筆画については今後の研究課題としたい。

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