― 507 ―第二章 版本挿絵からみる画風の変遷玉山の挿絵には丸顔の人物や鼻筋の通った顔貌表現が多くみられ、月岡派の画系に連なる絵師であったことは間違いない。しかし、先述の通り彼の最初期の作品ならびに関連史料も見出せていないのが現状である。ところが、彼は手掛けた版本作品に収載される跋文に、制作時の心境やどのようにして画を学んでいたのかを記している。加えて、制作時期は不明であるが玉山の雑記帳である『いろは引画稿』(制作年不詳、関西大学図書館蔵)も残っており、そこには、玉山が参考にしていたと考えられる作品名も確認できる。これらは、玉山の画業を知る上で貴重な情報を提供しているといってよい(注9)。ここでは中野氏が指摘する密画様式が確立していく『絵本太閤記』以前以後に分けて、玉山の版本挿絵をみていくことにする。1)天明年間─寛政8年:『絵本太閤記』刊行以前この時期の作品は教訓物、軍記物、名所図会、地図など様々なジャンルの挿絵を手掛けている。まず、現在確認できる刊行年の早い時期の作品『唐土廿四孝』(天明7年頃)をみる。人物描写をみると、均一な太さの線で輪郭線が採られ、月岡派独特の丸みを帯びた女性の描写はみられない〔図1〕。樹木や峻法は、狩野派系絵師の絵手本などにみられる描写と類似しているといってよい。師とされる雪鼎の絵手本『金玉画譜』(明和8年・1771)の中国美人図をみても、面長な顔を描いている。玉山は描く題材によって画風を使い分けていたのかもしれない。『絵本太平廣記』(寛政4年・1792)をみると、人物を正面だけでなく背後、あるいは斜めなど様々な角度から捉えていたり、瞬間的なポーズを捉えたりして、躍動感に富んだ画面を描こうとする姿勢が窺える〔図2〕。群衆を描く際にも、人物の顔貌は描き分けられ、表情に富んでいるといってよい〔図3〕。輪郭線は、人物、樹木、岩肌など対象によって、太さが異なっている。しかし、樹木の樹皮や岩肌の峻法は先の作品と変わっていない。同じく軍記物の『絵本頼光一代記』(寛政8年・1796)では、渡辺綱の「戻り橋」(巻二・2丁裏)や土蜘蛛退治(巻二・7丁裏、8丁表)〔図4〕の場面などの後に武者絵の画題として扱われる挿絵が多く描かれている。酒天童子を退治する場面(巻四・8丁裏、9丁表)では、頼光四天王と平井保昌に押さえつけられ、身動きが取れず、もがく酒天童子の姿が上手く表されている〔図5〕。玉山が描く武者の姿は、「動き」の表現に富み、迫力のある場面となっている点に、彼の特徴を求めることができるのではないだろうか。また、説話の中心人物を背後から描いた
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