― 508 ―り、画面の中央に樹木を配置したりするなどの画面構成が面白いものもみられる〔図6〕。玉山が描く格闘場面には、一部画面を埋め尽くすかのような挿絵もみられ、「密画様式」にいたる前段階の表現が認められるといえよう。なお、『住吉名勝図会』(寛政7年・1795刊行)巻之二「六月晦日荒和大祓」(22丁裏、23丁表)では、透視図法を採り入れた空間性に富む挿絵がみられる。最前景に鳥居を配し、その先にある橋を消失点としている〔図7〕。しかし、同場面に描かれている画面左から右へと神輿を引く行列の群像には三遠法が採られており、折衷的な画面構成となっている。本挿絵は、頁をめくると「其二」、「其三」と見開きの挿絵が続き、ワイドスクリーンのような画面となっている。このような挿絵は、当時盛んに刊行されていた名所図会の挿絵から引き継がれたものと考えられる。玉山は同書巻之三「津守寺北之門」(10丁裏)でも透視図法を用いて、画面の奥行表現を意識した挿絵を手掛けている。玉山の新しい表現への試みを確認できるものといえよう。ここまで、玉山の天明期から寛政8年までに刊行された版本挿絵をみてきた。動きに富む人物描写や、中心人物を背面から捉えるなどの画面構成が面白い。人物の顔貌表現を描き分けるという点では、生々しい表情を捉えた美人画を手掛けた京都の絵師祇園井せいとく特(宝暦5年-文化12年以降・1755-1815)の絵を、弟子に写させていることが指摘されている(注10)。玉山が人物の顔貌を描くことに関心を持っていたことを示す興味深い資料といえよう。また、軍記物などにみられた格闘場面を描く場合には、画面を埋め尽くすような挿絵を確認でき、密画様式へ繋がるような表現が採られていたといってよい。2)寛政9年以降の版本挿絵─密画の確立と展開玉山の「密画様式」は、『絵本太閤記』が刊行される寛政9年頃から確認でき、『芥子園画伝』などの中国版本から着想を得たとされる(注11)。一方で、文化年間に刊行される『絵本玉藻譚』(文化2年・1805)、『唐土名勝図会』(同3年)の挿絵には、中国版本に加えて、西洋銅版画を参考にした表現が散見されるのである。玉山の密画様式の確立には、海外からの絵画資料の存在が示唆されるといってよい。しかし、当時入手が難しかったと思われる中国版本や銅版画類の入手ルートおよび玉山の交友関係は判然としない。かつて筆者は、玉山が異国人物を描く際に、友人から資料を得たという記述を『絵本太閤記』六編巻之十二に残していることを指摘したが、その友人がどのような人物であったのかを見出せていない(注12)。『唐土名勝図会』の巻一には参考にした書物が記され、さらに各巻頭には「故蒹葭堂木世先生遺意」とあり、玉
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