― 509 ―山が大坂の文人木村蒹葭堂(元文元-享和2年1736-1802)の蔵書を目にする機会があったことは間違いない(注13)。『絵本玉藻譚』の跋文(巻之)には「文化乙丑(筆者注:文化2年)のとし後の葉月玉山法橋まふす」として次のように述べている。寛政丁巳のとし(寛政9年)、此物語(『絵本玉藻譚』)を編あミ繪ゑを繍ぬひものして、既に書肆に授ぬれど、まだ校を終ざるほどに、唐土名勝圖會なるふみの、撰ゑらみにかゝりて、何くれと暇いとまなくうちやりしに、今年春の季、それらのことどもしはてたれば(※引用文の句読点、および括弧内、下線などの注は筆者による)玉山は寛政9年頃すでに『唐土名勝図会』の編纂に従事しており、すでに蒹葭堂が収集した書籍を目にする機会を得ていたことがわかる。そして、文化2年の末にはその作業を終えたと述べている。つまり、『絵本玉藻譚』を制作する際には、すでに蒹葭堂の蔵書を閲覧していたことになり、同書にみられる洋風表現を用いた挿絵の着想はここに求められるのかもしれない。いずれにしても、玉山は寛政末頃から中国版本、洋書挿絵などを参考にしていたことが、「密画」の確立に関係していた可能性は高い。では、具体的に玉山の挿絵をみていくことにしよう。まず、『絵本国姓爺忠義伝』(文化元年・1804)では、動きの人物表現に着目したい。「怨霊殺趙士禎」(前編巻之一・16丁裏、17丁表)では、怨霊に驚き、両手を挙げて転げ落ちる人物が描かれている〔図8〕。同じような場面が『怪談旅之曙』(寛政8年・1796)にも描かれているが、人物の動きの表現が増していることは明らかである(巻一・7丁裏、8丁表)。その要因として、人物のポーズを精緻に捉えている点を挙げることができる。大きく開かれた手のひら、ぴんと伸びた足などの描写は、転げ落ちる人物の仕草を巧みに表しているといえよう。一方、怨霊をみると、逆立つ髪や衣の裾や帯紐が揺れ動く様子が捉えられている。『絵本玉藻譚』では、緻密な背景描写とともに、洋風表現を採り入れた挿絵がみられる〔図9〕。とりわけ、巻三の舞台が天竺ということもあり、玉山が過去に描いた中国や朝鮮とは異なる異国を表現しようとしていたのか、西洋風の人物や建築物が多くみられる。また、透視図法を採り入れた、奥行のある画面構成となっていたり〔図10〕、銅版画のハッチングのような陰影表現を用いていたりする。玉山の洋風表現への関心が顕著な作例といえる。『唐土名勝図会』では、「名所図会」のような俯瞰的描写がみられるものの、中国の建造物や群衆の表現などは緻密に描き込まれている。「水すいれん洞とう簾」(巻之六・15丁表)〔図
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