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― 510 ―11〕にみられる、そびえ立つ崖は、幾重にも線を連ねることで、ごつごつとした岩肌が表されている。版本ながらも、文人画風の描写を上手く伝えているといえよう。ここまで、『絵本太閤記』以降に刊行された版本挿絵をみてきた。人物の描写や背景を埋める緻密な描写などが「密画様式」の特徴であることが確認できた。一方で、『絵本玉藻譚』で顕著にみられた陰影表現は他の作品では多く用いられているものではなかった。あくまでも、異国を描き出す上で採り入れられた表現であったと考えられるのである。しかしながら、人物のポーズなどに躍動感が増しており、背景の緻密な描写と連動することで迫力のある画面が形成されていたといえよう。第三章 玉山の後代絵師への影響─国芳、北斎を中心に─ここまで玉山の画業を中心に考察してきたが、彼の作品は後代の絵師に利用されている例を確認できる。ここでは、19世紀初期から半ばにかけて、江戸で活躍した浮世絵師歌川国芳、および葛飾北斎を採り上げたい。なお、鈴木重三氏によって国芳の錦絵作品には上方の絵手本を参考に制作していた作例が指摘されている(注14)。筆者は、国芳が玉山の版本挿絵の図様を転用していたことを確認しており、両者は間接的にではあるが何かしらの影響関係があったと思われる(注15)。例えば、玉山没後に刊行された『鎮西琉球記』(天保5年序文)「佐野帯刀鰐鮫を討とる図」(巻六・1丁裏、2丁表)では、荒々しい波飛沫があがる中、鰐鮫の喉元に太刀をあびせる佐野帯刀が描かれている〔図12〕。鰐鮫は視線を上に向け、口を大きく開けて苦しんでいる。ごつごつとした硬質な鱗が幾重にも描かれ、鰐鮫の異様な様子を上手く表しているといえよう。鰐鮫の図様は、北斎の『椿説弓張月』や国芳の《讃岐院眷族をして為朝をすくふ図》などにもみられるものであり、両者が参考にした可能性がなかったとはいえない。一方で、北斎や国芳が玉山の図様を参考するだけでなく、描写そのものに影響関係はなかったのであろうか。そこで、注目したいのが「動き」の表現である。玉山の版本挿絵をみてきた中で、人物描写、とりわけ動きの表現を描き出すことが特徴であることを述べた。国芳、北斎はともに躍動感に満ちた画面構成を採る作品を残した絵師といえる。岩切友里子氏は国芳の武者絵について、「彫摺の技術に支えられた描写の緻密化」、あるいは「人物の動きばかりでなく、事物の布置にも有機的な方向性、運動感を持たせる巧みな画面構成」と評している(注16)。国芳の作品には、人物の顔貌に線描を用いて皺を描き込むという、理想化された人物像を描く浮世絵には珍しい表現もある。国芳は対象を迫真的に描こうとした絵師の一人といえそうである。また、

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