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― 516 ―㊽ 興福寺脱活乾漆造八部衆像に関する再検討研 究 者:金沢美術工芸大学 美術工芸学部 准教授  水 野 さ やはじめに現在、奈良・興福寺国宝館に安置される阿修羅、乾闥婆、迦楼羅、緊那羅、沙羯羅、鳩槃荼、畢婆迦羅、五部浄の脱活乾漆造による尊像(以下、興福寺像)は、同じく興福寺国宝館に安置される十大弟子像とともに、興福寺西金堂の像とされる。興福寺像に関する現在の理解は、主に次の二点に集約されよう。まず、光明皇后が母橘三千代の追福のために発願し、天平6年(734)建立の興福寺西金堂当初像であるという前提のもと、『金光明最勝王経』に依拠するという教理的理解である。そして、その伸びやかで若々しい体軀表現は、法隆寺五重塔の塑像群より一歩進んだものであり、東大寺法華堂の脱活乾漆造諸像との間に位置するとの造形的理解である。その一方で、興福寺像の尊名、八軀の尊像構成および本来の図像的特徴に関し、従来の研究においてあまり触れられてこなかった。中国および韓国の八部衆像の研究成果を踏まえ、国内の作例との比較により、図像と尊像構成の点から再考察を行うことは、すでに十分な研究蓄積がある興福寺像においても、取り組むべき課題であろう。以下、興福寺西金堂に関する文献史料について先行研究をもとに再度確認した上で、中国・韓国の八部衆像の特徴を基とし、今回さらに、国内の千手観音二十八部衆を構成する八部衆由来の尊像との比較を通して、そこに浮かび上がる現在の興福寺像における諸問題を明確化させることが、本稿の目的である。1.興福寺西金堂および大安寺金堂の八部衆像をめぐる解釈現在の興福寺像については、西金堂の当初像か否かを巡り、安藤更生・小林剛・足立康の三氏間に激しい論争があったことは周知のとおりである(注1)。その論点をまとめると、問題は次の三点に集約される。第一に、治承4年(1180)に西金堂の当初像は焼失したのか、それとも救出されたのか、第二に、『扶桑略記』により知られる当初像の像高「六尺」をどう考えるか、第三に、額安寺古像説を説く『南都七大寺巡礼記』(室町時代)と『興福寺濫觴記』(江戸時代)の信憑性についてである。いずれについても、安藤・足立・小林の三氏がそれぞれの立場で主張を重ねられ、文献解釈が最後までそぐわないままであり、もちろん、足立氏により「移安像」の根拠となる一文が誤記、誤解によることは明らかにされたが(注2)、興福寺像の様式

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