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― 517 ―的特徴の判断により現在のところに落ち着いた感もぬぐえない。『七大寺日記』(1106年頃)興福寺西金堂条には、次のように記されている(下線は筆者による)。丈六釈迦三尊。高名第一像也。可見。十大弟子八部衆等アリ。尤可見。金剛力士之像アリ。可見。又霊験之観音。宝帳之廻リニ。別ニ又八部衆之像アリ。高名之物也。可見。元ハ是ヌカタヘ寺ノ像也(下略)西金堂に霊験観音(十一面観音)が安置された時期は定かではないが、玄昉の帰国(735年)以降、初期密教の十一面観音信仰が急速に普及した時期とも推測される。「延暦記」には霊験観音について記述されているため、8世紀後半には西金堂に十一面観音が奉安されていたことになる。ここで、「別ニ又八部衆之像」の年代および素材・技法などは一切判らないが、「高名之物也。可見」と高い評価を受けている点から、「尤可見」と評価された八部衆・十大弟子像に準ずるはずである。『七大寺日記』を通して、金銅仏、乾漆仏など、木像ではないいにしえの素材・技法への関心があったことを考慮すれば、霊験観音の周囲の別の八部衆一組も同様に乾漆像であり、平安以前に遡る造像と推測することも可能ではないであろうか。仮に、別の八部衆像は新たに造立されたものではなく、西金堂安置の8世紀の諸像に見合う群像が他所から移安され、これを「ヌカタヘ寺ノ像」と伝えていたのかもしれない。しかし、ヌカタヘ寺(額田部寺、額安寺)における乾漆造八部衆像の存在が史料上確認できず、額田氏の氏寺にすぎない額安寺においては、脱活乾漆造八部衆像の造立そのものが難しいであろう。その一方で、額田氏の出身である道慈が深く関与した大安寺に、興福寺西金堂とともに、脱活乾漆造の八部衆像、十大弟子像が安置されていたことは、これまで以上に着目されても良いと思われる。興福寺西金堂の釈迦を中心とした浄土の情景が、義浄訳『金光明最勝王経』によるものとの理解は先学により示されており(注3)、また、本経は養老2年(718)に帰国した道慈が請来したとされ、道慈は帰国後まもなく興福寺に入り(注4)、西金堂造営に深く関与した人物とみなされている(注5)。天平6年(734)から天平9年(737)の間には興福寺を去り、大安寺に移居し伽藍整備に尽力する。大安寺は、天平19年(747)勘録『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』金堂条によれば、「丈六即像弐具。右淡海大津宮御宇天皇奉造而請坐者」、「即四天王像四軀。右淡海大津宮御宇天皇奉造而請坐者」、「即羅漢像十軀。即八部像一具。並在仏殿。右天平十四

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