― 518 ―年歳次壬午寺奉造」が安置されていた。このうち、乾漆の釈迦三尊像、四天王像はともに天智天皇期造立の継承とされるが、乾漆による羅漢像十軀と八部像一具は、天平14年(742)、すなわち、道慈が大安寺の伽藍造営に関与した際に追造されたものである。寛仁元年(1017)に大安寺は罹災しており、その様相は『七大寺巡礼私記』、『御堂関白記』、『扶桑略記』などにおいて知られる。なお、『七大寺巡礼私記』に「寛仁年中。西塔并講堂。食堂。宝蔵。経蔵。鐘楼等凡廿余院払地焼亡。但至于尺迦像并大師造本尊者僅所奉昇出也」とあるが、この際に救出されたのは本尊乾漆造丈六釈迦像のみだったのであろうか。記載の順位としては当然本尊像が高いが、周囲の像に触れられていないからといって救出されなかったと断定することもできない。これは、興福寺像を西金堂当初像とする先行研究において、九条兼実『玉葉』治承五年正月三十日条に、救出された仏像として西金堂の十大弟子、八部衆像の記載はないものの、最優先の記載事項ではなかったためと解釈し、焼失していない(救出された)とみなすことと同じである。興福寺北円堂の木心乾漆造四天王像(791年)が、もとは大安寺像であることなどを踏まえると、「同じく道慈がかかわる大安寺の乾漆十大弟子・八部衆を額安寺像として移したのかもしれない」(注6)とする小林剛氏の指摘が想起される。2.東アジアの八部衆造像における興福寺像の位置づけ現状における興福寺像八軀には、灌頂『観音義疏』(6世紀後半)などに列記される八部衆を構成する尊像(注7)、すなわち、天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽のうち、三面六臂の阿修羅像〔図1〕、頭部に獅子皮を被る乾闥婆像〔図2〕、鳥頭人身の迦楼羅像〔図3〕、頭に蛇を巻き付ける伝沙羯羅像(摩睺羅伽像)〔図4〕、頭に一角を有する緊那羅像〔図5〕(注8)の五尊については、中国・韓国の作例と照らし合わせてみても、問題なく尊名を確定できる。しかし、五部浄、鳩槃荼、畢婆迦羅と称されている三像については明確にされない。まず、頭髪の一部を炎髪とし横一文字に開口する伝鳩槃荼像〔図6〕は、左右手ともにやや脇を開いて胸下の高さに置き、指先を軽く曲げて何かを緩やかに挟み持つような仕草をとる。本像については、韓国の作例のうち、夜叉像(着甲像で頭髪の一部を炎髪とし、かすかに開いた口に連珠をくわえる)との共通性を視野に入れたい〔図7〕。伝畢婆迦羅像〔図8〕は顎髭を有し、眉根を寄せ、やや瞋目とするが、尊名同定につながる特徴を見出せない。また、伝五部浄像〔図9〕であるが、後述の通り、
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