― 521 ―(注18)と記され、これは胎蔵曼荼羅中の外院に描かれる緊那羅像である。すなわち、八部衆の尊像の初期図像は中国において形成された(注19)のに対し、二十八部衆の同種の尊像には、第一に中期密教系の諸経典・儀軌により新たにもたらされた尊像の理解、図像によるもの、第二に中国形成の初期図像をそのまま用いるもの、第三に両者の特徴の融合という三形式が混在していると考えられる。そこで、五部浄居天の「象頭」「象皮」についてあらためて目を向けると、毘那夜迦天、大黒天の図像が想起される。特に毘那夜迦天は『陀羅尼集経』、『不空羂索神変真言経』、『如意輪陀羅尼経』など、8世紀中頃に将来され、8世紀後半以降の造像にその影響が看取できる経典に多出する(注20)。その姿は、阿地瞿多訳『陀羅尼集経』(654~654年頃)巻第十諸天巻上仏説摩利支天経一巻によれば、「作一百鬼形像。其中鬼王名毘那夜迦。此鬼王頭作白象頭形」(注21)とされる。以上の点を整理すると、僧伽跋澄訳『僧伽羅刹所集経』に鬼神について「著師子皮著象皮著犛牛皮。大華鬘如大火炎。手執刀剣撞地而行」(注22)とその容姿を形容しているとおり、「頭付きの象皮を被る」という特徴は、広く鬼神形像の特徴の一つである。しかし、8世紀後半以降、象頭の図像を明記する毘那夜迦天が流布し、大自在天と関係の深い毘那夜迦天のつながりから、八部のうちの天(自在天)として認識されるようになったのでないか。興福寺像は、その技法および様式的特徴から8世紀後半には下らない。とすれば、頭付き象皮を被る図像を天と認識するにはやや早く、鬼神形像の一つとしての理解に留まっていた段階の尊像と思われる。なお、平安時代に二十八部衆像が造立されるあたり、経軌による造像に留まっていては困難な点もある。それは、詳細に記述される尊像もあればそうではない尊像もあるからである。そこで、前述のように二十八部衆各像を具体的に造像するにあたり、中期密教系の諸経軌により新たに受容された尊像の理解、図像によるもののみならず、既存の八部衆の図像をそのまま用いるもの、両者の特徴の融合という形式が混在し、既存の守護尊像のイメージが総合的に活用されたと推測される。先行する八部衆像に認められる図像的特徴が、尊名の同一に関わらず二十八部衆像に取り入れられたこともあったのであろう。その一例として挙げられるのが頭付き象皮を被る五部浄居天であると考える。経軌には「色紫白。左手持炎摩幢。右手女竿」と炎摩天の姿が説かれていても、実際の造像には、外来神の代表として既にイメージが定着していた頭付き象皮を被る毘那夜迦天の特徴が借用されたのではないであろうか。そもそも、現状における興福寺像の尊名が二十八部衆を構成する尊名に依拠していることからも、阿修羅や迦楼羅などを含む群像形式として、中世・近世における千
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