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― 524 ―従う尊像であるが、ここでも眉根を寄せ、眉間に力を込め、慟哭を押し殺しているようである。四川省の作例において注目されるのが、貞観8年(634)銘「造四面龕僧道密碑」を伴う梓潼臥竜山石窟における八部衆像である。この碑文には、「京在真齋寺」など、長安にあったと思われる寺院での尊像を写したと記されており、当時の長安において流布していた八部衆像の一様をうかがえる資料と考えている。臥竜山石窟群のうち、八部衆像をあらわすのは第一龕、第三龕であり、次の八尊により構成される。第一龕  ①竜(頭上に竜、左手で竜脚一本を握る)、②上半身裸形で領襟を付け、胸前で合掌する尊像、③乾闥婆(獅子皮を被る)、④阿修羅、⑤着甲神将形像で、頭上に大魚を表すとみられる像、⑥迦楼羅(嘴を有する)、⑦文服を着装し合掌する天部形像、⑧着甲し合掌する神将形像第三龕  ①天部形像(三面頭飾を付ける)、②乾闥婆(獅子皮を被る)、③不明(欠損)、④不明(欠損)、⑤竜(着甲着兜の神将像、頭上に竜、剣を執る)、⑥不明(欠損)、⑦欠損(第一龕②像と同じか)、⑧天部形像(肩に大魚を担ぐ)ここで注目したいのが、各尊像の表情である。比較的面部まで残りの良い第三龕の①天部形像〔図13〕、②乾闥婆像〔図14〕、⑧天部形像〔図15〕の表情は、かすかに眉根を寄せて目を凝らし、沈み込むような表情を呈する。後の神将像に普遍的となる力を凝らすものではない。広元皇沢寺大仏窟(初唐)〔図16〕、広元千仏崖二仏並坐窟(初唐)などではこの表情に形式化が生じ、それ以降の作例では、涅槃の場面においては慟哭の様を露わにし、それ以外の場面における八部衆像は、形式化・普遍化が進む。なお、第一窟⑤像および第三窟⑧像は大魚を担ぐ尊像である。これは韓国の石塔における八部衆像にも認められ、かつ、その図像の源泉として中原地域で流行した神王像のうちの河神王の図像に共通することから、離れた両地域に共通する情報の源として、長安を中心とした造像が影響力を持っていたことが推測される。以上のように、7世紀前半の長安において、あたかも興福寺像のような繊細な表情をともなう尊像が如来像の周囲に造立されたが、8世紀に近づくにつれ、仏涅槃においては悲しみを露わにし、それ以外においては天部像としてないしは守護尊像として形式化された面貌表現に集約されて行くことがうかがえた。このことは、日本国内の作例にも反映され、金剛峯寺蔵仏涅槃図(応徳涅槃図、1086年)中の八部衆像がいずれも感情を露わに慟哭し、京都国立博物館蔵釈迦金棺出現図(12世紀)中の八部衆像が神将像としての力強い瞋目の表情を見せ、以降、国内の仏画に描かれる八部衆の表情は固定化している。

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