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― 525 ―結びにかえて以上のように、興福寺像の図像的特徴は中原における比較的古様の図像により、その面貌表現は、7世紀前半の造像との関係が想定された。なお、西金堂造営に関与したとされる道慈は、大宝元年(701)の遣唐使船に従い入唐し、長安の西明寺に滞在した。帰国(718年)してまもなく興福寺に入り、後に大安寺に移居する。長安の西明寺に滞在した道慈は、当然、長安における新様の作品、既存の作品に接する機会があったであろう。興福寺像と尊像構成や図像的特徴が完全に一致する作例は、中国・韓国の現存作例には確認できない。様々な情報を一同に得て、活用できる環境が、興福寺像を考える上で求められる。それこそ、長安における既存の図像の借用である。8世紀までに存在した中原における複数の図像情報の中から、それぞれの特徴を適宜組み合わせて八尊による群像構成を成し遂げたもの、それが現在の興福寺像八軀であるといえる。ところが、興福寺西金堂の造営において、旧式の特徴を組み合わせる必然性はない。それに対し、大安寺金堂においては、天平14年(742)に十大弟子像とともに八部衆像を新造し、天智天皇期の乾漆造釈迦三尊像、四天王像の周囲に奉安するにあたり、あえて長安の7世紀の八部衆像の様相を反映させ、調和を図る必要があったのではないか。大安寺からの移入像であるという可能性については、かつて小林剛氏が述べられている。足立康氏、安藤康生氏ともに何ら根拠がないとして一蹴されたが、今一度、議論の俎上に挙げる必要性を強調し、結びにかえたい。注⑴ 安藤更生(西金堂当初像)・足立康(西金堂当初像)小林剛(他寺からの移安像)各氏のおよび西金堂建設の側面から当初像と判断した福山敏夫氏の論考は以下の通りである。 ・ 安藤更生「興福寺の天龍八部衆と釈迦十大弟子像の伝来に就いて」、『東洋美術』3、1929年9月、90~95頁 ・ 安藤更生「再び興福寺十大弟子八部衆像を論じて額安寺説を駁す」、『東洋美術』4、1933年2月、70~74頁 ・ 小林剛「興福寺十大弟子像および八部衆像の伝来について」、『美術研究』11、1932年11月、1~13頁 ・ 小林剛「興福寺十大弟子像及び八部衆像の伝来再考」、『東洋美術』17、1933年4月、97~106頁 ・ 足立康「興福寺十大弟子及び八部衆像の製作年代」、『東洋美術』4、1933年2月、75~91頁 ・足立康「再び興福寺十大弟子像等に就いて」、『東洋美術』18、1933年7月、117~120頁 ・福山敏夫「興福寺西金堂の造営」、『東洋美術』17、1933年4月、1~19頁

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