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― 526 ―⑵足立康「『七大寺日記』と『七大寺巡礼私記』」、『東洋美術』16、1932年11月、1~16頁および「『南都七大寺巡礼記』の研究」、『東洋美術』17、1933年4月、20~39頁。⑶近年の論考では、小林裕子氏の次の論考に詳述される。小林裕子「第七章 西金堂釈迦集会像」、『興福寺創建期の研究』、中央公論美術出版、2011年1月、187~220頁。⑷森下和貴子「藤原寺考─律師道慈をめぐって─」、『美術史研究』25、早稲田大学美術史研究会、1987年12月、127~143頁。⑸浅井和春「八部衆立像」、『日本美術全集』3(奈良時代Ⅱ、東大寺・正倉院と興福寺)、小学館、2013年9月、226頁および「興福寺西金堂の造像」、『天平の美術』(日本の美術456)、至文堂、2004年。⑹前掲注⑴小林剛論考(1933年)。⑺『大正』34-934下~935上。⑻灌頂『観音義疏』、「緊那羅者(中略)形似人而頭有角」(『大正』34-935上)。⑼拙稿「興福寺の脱活乾漆造八部衆像について─中国・韓国の作例からみた図像的位置づけ」、『凡アジアの仏教美術』、中央公論美術出版社、2007年12月、379~402頁。⑽天平2年(730)建立とされる平城京薬師寺の東塔・西塔初層には、法隆寺五重塔と同様、塑像が安置されていた。創建期に㴑るものとして、西塔址より出土した塑像片と東塔から取り出された塑像心木があるが、いずれも尊像の図像的特徴を確認できない。なお、鎌倉時代の追補された東塔塑像心木には、阿修羅や乾闥婆が認められる。伊東史朗「薬師寺東・西塔の塑像心木」、『八部衆・二十八部衆』(日本の美術379)、至文堂、1997年12月、28頁。⑾日本における二十八部衆の造立は、『中右記』元永元年(1118)閏九月条に夢に千手観音と二十八部衆を見たという記述、『吾妻鏡』文治5年(1189)九月条に奥州毛越寺の千手堂に木造二十八部衆あったという記述などから、12世紀頃からとされる。前掲注⑽伊東史郎『八部衆・二十八部衆』、39頁。⑿『塩船観音寺二十八部衆像』、大悲山観音寺、1988年11月、29頁掲載図版および山本勉「塩船観音寺本堂内の諸像─造像銘記を中心に─」、同書55~76頁。以下、同書63頁に記される像の墨書名のうち、背部内の銘は以下の通りである。(背部内) 文永伍年十二月三日定快之作也 五部浄居  (定快花押)⒀『大正』61-751中。⒁『大正』20-138中。⒂『大正』34-935上。⒃『大正』39-1008上。⒄『大正』20-138下。⒅『大正』20-136中。⒆八部衆を構成する各尊そのものは梵本経典にも見出せるが、その姿形に関する具体的特徴は経典には明記されないことが多い。そこで、中国において具体的な造像が行われるに際し、既存の守護尊像、例えば、6世紀に多く造られた神王像などの特徴を取り入れて形成された可能性が高い。拙稿「竜門賓陽北洞の八部衆像について─中国における八部衆の図像の成立に関する一試論」、『密教図像』20号、密教図像学会、2001年12月、29~48頁。⒇天平勝宝7年(755)の『経疏出納帳』に「陀羅尼集経一部十二巻」と記載があり、『陀羅尼集経』は8世紀中頃に国内にもたらされた。8世紀後半頃に実際の造像に影響力を及ぼし始めた

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