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― 533 ―品図版を掲載し、時として編集に携わったという点において重要だからである。これらは、芸術実践のオルタナティブな場として機能したとまでは言えないが、抽象表現主義の作家たちが能動的に関与したことには、一定の意義が認められる。その1940年代のアメリカにおけるリトルマガジンの研究を目的とする本調査では、その第一段階として特に『虎の目』に焦点をあてた。2、「リトルマガジン」の特徴と評価当時、リトルマガジンとはどのようなものと考えられていたのか、その特徴を手短かに確認しておきたい(注6)。リトルマガジンとは、一般的には非営利によって出版されている雑誌のことを指し、その内容は主に大衆の趣味に向けたものというよりも、急進的な主張や前衛的で実験的な詩や作品を掲載することを特徴とした(注7)。リトルマガジンの「リトル」とは、雑誌の判型の大きさや発行部数(ただし、実際には発行部数が1000部以下のものが多い)、予算規模や発行期間のことを指すというよりもむしろ、読者規模の小ささを指す(注8)。つまり、リトルマガジンとは、限定された読者層に対して発信する雑誌媒体のことであり、こうした認識は1940年代のアメリカにおいてすでに共有されていた(注9)。新聞や総合誌といった大手メディアが政治・経済・社会・文化全般について網羅的な内容を含むのに対して、リトルマガジンはある分野の専門的な内容に特化することが多く、それぞれの理念がその雑誌の特色や方向性をつくり、読者はそうした理念を理解するのにある程度の学習背景を要求されるため、必然的に一定の層に限定される。また、大手メディアとは異なり、リトルマガジンによって形成される言論空間は、特定のコミュニティを形成することに大変重要な役割を果たした。例えば、先ほど言及した1940年代前半に相次いで刊行されたリトルマガジン『ヴュー』、『ダイン』、『ヴィヴィヴィ』は、アメリカ大陸におけるシュルレアリストたちのコミュニティの形成にとって欠かせない媒体であった。また、アンドレ・ブルトンをはじめとする亡命シュルレアリストたちの多くは英語を解さなかったため、シュルレアリスムの機関誌は、フランスのシュルレアリストたちとアメリカの人々との橋渡しとしての役割を果たしたのである(注10)。次にこうしたリトルマガジンについて当時どのような言説が存在したのかを確認していきたい。この時代のリトルマガジンについて扱った最初期の批評は、『パーティザン・レヴュー(Partisan Review)』〔図3〕に1941年に発表されたクレメント・グリーンバーグによる「リトルマグのルネサンス」(注11)であった(注12)。当時1年以内

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