― 534 ―に創刊した『アクセント(Accent)』、『ディオゲネス(Diogenes)』、『エクスペリメンタル・レヴュー(Experimental Review)』、『ヴァイス・ヴェルサ(Vice Versa)』、そして『ヴュー』の五誌について彼は批評した。グリーンバーグはこれらのリトルマガジンの創刊を「アヴァンギャルド・ライティング」の復興として好意的に考えていたものの、他方でこの論考はニコラ・カラスによる『パーティザン・レヴュー』誌批判に対する間接的な応答でもあった(注13)。1946年には、先に言及した『リトルマガジン: 歴史と目録』が刊行され、それまでに存在した多くのリトルマガジンについての基本情報をまとめたことで、リトルマガジンの歴史化に貢献した。しかしながら、『ヴュー』(1946年休刊)の編集者であったパーカー・テイラーは、1948年に発表した『ポシビリティーズ』および『虎の目』についての書評の冒頭で『リトルマガジン: 歴史と目録』を「信じられない配列」と述べ、その雑誌選定について批判した(注14)。そして、テイラーは、『ケニヨン・レヴュー(The Kenyon Review)』や『パーティザン・レヴュー』のようにアカデミックな雑誌はあるものの、当時のリトルマガジンの多くにおいて、ガートルード・スタインやジェイムズ・ジョイスのようなモダニストの名前が言及されることはほとんどなく、大衆迎合した文学の紹介が主であったことを指摘し、その中で『ポシビリティーズ』と『虎の目』を、最も野心的で印刷物としても華麗な「近年の最良の産物」で、リトルマガジンの歴史に重要な基本方針を与えるものであったと高く評価した。3、『虎の目 美術と文学について(The Tigerʼs Eye: on Arts and Letters)』『虎の目』は、1947年10月から1949年10月にかけて9号まで出版された季刊のリトルマガジンである。詩人で著述家であるルース・スティーヴンとその夫で画家のジョン・スティーヴンによってニューヨークで立ち上げられ、編集体制は彼らに加えてニューマン、ハーバート・カフーン、クルト・セリグマン、スタンリー・ウィリアム・ヘイターなど数名が巻ごとに入れ替わり、共同編集者として協力することで成り立っていた。発行部数は、4000~5000部で、当時ニューヨーク知識人サークルの舞台となったリトルマガジン『パーティザン・レヴュー』の8000部には及ばないが、3000部を誇った『ヴュー』よりもさらに多かった。実際に『虎の目』は、リトルマガジンにもかかわらず、多くの大学附属図書館に所蔵され、さらにニューヨークだけでなく、サンフランシスコ、シカゴ、シアトル、パリでも販売された。また、詩や小説といった文芸を中心としながらも、画家ジョン・スティーヴンが美
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