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― 545 ―の内衣」「大袖の衣」「鱗袖を付したがい襠衣」、下衣として「裳」「蔽膝」という着衣構成の源流を再検討し、「中国において、皇后等の礼服にのみ使用される高貴な衣(大袖の衣、蔽膝)と、非現実性・神聖性を象徴する衣(がい襠衣、蔽膝の縁飾り)を併せ持っていたと考えられる」(注2)と指摘、その意味については吉祥天女像に「高貴性・神聖性・神秘性」(注3)を付与するためだったのではないかと考察している。神像としての女神像については、岡田麻未氏の研究がある(注4)。9世紀~10世紀初めの女神像は、氏族女性をイメージした「現実的な女性の服装である礼服をもとにしたと考えられる着衣形式」(注5)だったが、10世紀代になると、吉祥天像と共通する着衣、すなわち、「がい襠衣」や「襟飾り」を付けた服装に変化することを明らかにしている。また、この変化を神仏習合思想の変化に求め、「神が仏に仕えるという思想のもと、密教世界の天部の一員として神が認識され、女神像の着衣が徐々に天部像に近づいていったと考えられる」(注6)と考察している。「普賢十羅刹女像」において十羅刹女とともに描かれることもある訶梨帝母(鬼子母神)も唐装で表される尊格である。長尾順子氏によれば、インドや中国等では各地域の女性の姿、つまり土着化した姿で表されているが、日本においては三つの表現形式があり、最も古様の表現形式として吉祥天像と共通する唐装の「天女形」、中世貴族社会において登場した女房装束の「和装形」、近世庶民信仰のなかで成立した「鬼形」と、時代による展開過程が認められるという(注7)。それでは、なぜ、女性の尊格を表す際に唐装が採用されたのだろうか。垂迹絵画において、男性神が貴族男性の正装である束帯姿という世俗的な服装で表される場合でも、女神像は唐装で表されることが多いことから、大平有希野氏は「公の場に表立ての参加のない女性の場合、正装は常の和装ではなく、晴れの装束として唐装であらわされたのではないだろうか」(注8)と、唐装に「公的な装束」としての意味を見出し得ることを指摘している。以上のように先行研究を概観すると、日本において女神像の表現形式として一般的には唐装が採用されており、その着衣構成は、皇后等の礼服および天女・舞女の装束を範としたものであった。そして、それは「高貴性・神聖性・神秘性」を有するものとして尊格を表すため、また、公的なイメージを反映したものだったといえよう。3.唐装十羅刹女像の特質本助成により実見の機会を得、調査したのは次の6作例である。「千手観音二十八部衆像」(徳島・神宮寺)以外は、いずれも普賢菩薩と共に唐装の十羅刹女を表すも

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