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― 551 ―今後は両者の関連性を含め「普賢十羅刹女像」がどのように造形化されてきたかを考察する必要があると思われる。十羅刹女像の成立の契機についても唐装本と和装本を別箇に考えるのは難しい。五節舞姫の装飾である釵子と櫛を付ける女神像が管見の限り十羅刹女のみであることから、十羅刹女の表象は、貴族の宮廷文化において五節舞姫とのイメージの重なりから成立したと推察される。本仮説を検証するにあたって、奈良時代より造形化された唐装女神像の代表的存在である吉祥天女像の着衣の源流が舞姫・天女・高貴な女性の姿に求められるという見解を参照すれば、唐装十羅刹女像の初期の作例である、鶴林寺太子堂の柱絵の十羅刹女が五節舞姫の装飾の一つである櫛を頭髪に表すのは注目すべきだろう。報告者はかつて、僧正偏昭が五節舞姫にちなんで詠んだ歌「天つ空雲のかよひじふきとじよ乙女の姿しばしとどめむ」(注14)とそれを本歌とし八条院高倉が詠んだ「二十八品の歌よみ侍りけるに 陀羅尼品 天つ空雲のかよひじそれならめ乙女の姿いつかまちけん」(注15)より、十羅刹女の和装化を促したのは五節舞姫とのダブルイメージがあったのではないかという見解を提示したことがあるが(注16)、五節舞姫の装束が唐装であったという見解も提出されており(注17)、改めて十羅刹女像の造形史を考察する必要があると思われる。また、十羅刹女としばしば共に描かれる訶梨帝母が、インドや中国では土着化した姿で表されてきたことを鑑みると、訶梨帝母が十羅刹女の和装化を促したという仮説も成り立つように思われる。この点を検証するには、訶梨帝母が単独で表される場合は唐装であることも含め、訶梨帝母に対する信仰と十羅刹女信仰の関わりを考察すべきだろう。和装の十羅刹女の図像には一定の型が存在することが指摘されており(注18)、今回の調査で唐装にもいくつかの型に大別できる図像の継承関係を確認することができた。一度成立した図像が継承されていった背景には、発願者やその仏画が用いられた法会等、依拠するところを個別具体的にみていく必要がある。今回言及できなかった作例も含め、普賢十羅刹女像の造形史の展開過程を考究していきたい。注⑴ 仲町啓子編『「仕女図」から「唐美人図」へ(実践女子学園学術・教育研究叢書17)』実践女子学園、2009年。⑵ 海老澤るりは「奈良時代における吉祥天像の着衣とその源流に関する考察─東大寺塑像・法隆寺塑像・薬師寺画像を中心に─」『成城美学美術史』11、成城大学、2005年、42頁。⑶ 注⑵参照。

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