― 557 ―カンディンスキーが自らの絵画を自然から解放しようとしたのは、自然の再現的な描写が色彩と形態の効果を妨げると考えたからだった。「色彩」と「形態」の代わりに、「対象」を置いて欲しい。対象はすべて(それが直接「自然」によって創られたか、人間の手によって生まれたかの区別なしに)独自の生命と、そこから避けがたく流れてくる効果を持つ存在である。人間は、常に、そのような心理的効果の影響下にある。・・・(中略)・・・我々にはしばしば混沌としたものに見えるこれらの要素も、三つの要素、すなわち、対象の色彩の作用、対象の形態の作用、および色彩と形態から独立した、対象そのものの作用から成り立っている。いまや自然に代わって、これら三つの要素を意のままに用いる芸術家が現れる(注7)。ここでは、自然の外観や描写に依拠せずに、色彩と形態の効果を発揮するという芸術家の使命が謳われている。カンディンスキーが、知覚心理学や科学的な色彩論を参照していたことはすでに指摘されており(注8)、1990年代以降の研究の多くは、観者に対するカンディンスキーの関心や、観者の側からの視点を基点にしている。そうした研究に先鞭をつけたテューレマンは、カンディンスキーが目指したものを「精神的な絵画を物質化することなく、疑似心理学的なやり方で、同胞たちに伝えることだ」と述べ、ハルデマンは、画家のテキストでは「抽象」と「効果」が同じ語義であることを検証した(注9)。また、同じく観者のイマジネーションに着目したレイノルズは、カンディンスキーも含めた「抽象芸術の開拓者が鋭く気づいていたことは、形態や色彩という絵画的要素に対する観者の想像的な反応だけが、それらがカンヴァス上の純粋に物質的な印として見られるのを防ぐ」と指摘した点で、本研究にとって非常に示唆的である(注10)。実際にカンディンスキーは、観者の感覚を作動させる絵画空間を「観念上の平面」と呼び、それは「物質的な平面に先立って作られなければならない」ことをよく意識していた(注11)。抽象絵画が観者の知覚に働きかけるためには、絵画はその物質性を排し、メディアとして機能しなければならない。そのために色彩の効果を用いたミュンヘン時代のカンディンスキーは、こう述べている。「後になって私が使用した色彩は、同一の平面上に在るかのようであるが、それら色彩の内面的な重さは千差万別だった。こうして種々様々の色階の協力が自然と画中に現われた。この方法によっ
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