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― 574 ―ける構造である。当初のものは数体のみであるが、雲の上に体をひねらず正面を向いて安坐する体勢をとる。髻は明確ではないが垂髻ではなく、単髻を結ぶようである。天冠台も表面の傷みにより明確ではないが、「紐一条・列弁」とも見られ、それぞれ髻前に花飾りを着ける。14《西教寺阿弥陀如来像光背》〔図13〕滋賀・西教寺阿弥陀如来像は鳳凰堂像、浄厳院像に続く飛天光背を付属した丈六像の本格作である。周縁部の飛天は、左右6体ずつの12体で、雲と翻る天衣と冠繒を共木で彫っている。背面も浄厳院像同様、全体を扁平にし、略式ながら雲や衣文などを彫り表している。坐法は長跪、胡跪に安坐、さらには結跏趺坐まであり、左右最下段は立像とする。足先は長跪坐の左3像をのぞき、露にしている。天冠台は「紐一条・花形」で正面に花飾りを着けるものと着けないものがある。また、髻は右4、5、6像のみ単髻で、ほかは垂髻とする。天冠台下の髪は左5像のみ毛筋彫で、ほかは疎彫で表す。右6像は開口し、上歯をみせ、咲形とも見られる。考察形式について平安後期の飛天光背のほとんどは、飛天が雲の上に坐す「乗雲形」であるが、法隆寺献納宝物の甲寅年銘光背では足下に雲を表すものの乗るわけではなく、みずから飛翔する「飛翔形」である。この飛翔形から乗雲形へという変化は、飛天の東漸と時代の下降に従って見られる飛天と雲の表現の展開上にある。はじめ雲さえ必ずしも表されてこなかったものが、中国の隋代、唐代では飛天とセットで表されるようになり、次第に乗雲の姿も見られるようになる。その一契機として、唐代の大規模な浄土変相図の流行が挙げられていることを参照すれば(注11)、乗雲の飛天の姿は、浄土図中の雲に乗って中空を飛ぶ仏菩薩の表現を踏まえた姿として、浄土のイメージを反映しているといえる(注12)。そう見た時、奈良時代と平安時代後期は、仏堂に浄土を構成し、あるいは仏堂空間そのものを浄土に見立てることが特に盛んであったことが想起され(注13)、甲寅年銘光背から勝常寺像等にみる飛翔形から乗雲形の変化、さらには乗雲形を引き継ぐ平安後期の飛天光背の荘厳の意味は、そこに求められてくるだろう。もちろん、同時代にあって、飛翔形も少ないながら併存したことは、例えば平安後期とされるMIHO MUSEUM飛天像(注14)、米国・メトロポリタン美術館飛天像など残欠像に見られるし、十三世紀の栃木・医王寺薬師如来像や、中世の補作とされる(注15)高野山旧谷上大日堂大日如来像の光背など、飛翔形が特に鎌倉時代以降に

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