― 579 ―田徹英『近江の古代中世彫像の基礎的調査・研究─基礎データと画像蓄積のために─』2015年、浄厳院像:94-126頁、西教寺像:9-48頁)。⑽写真からは細部までは確認できないものの、観音菩薩像の光背は、勢至菩薩像の光背と飛天の姿を含め形式がほぼ同じようである。阿弥陀如来像の光背は、飛天の配置なども若干異なっており、飛天の翻す天衣も幅広で力強く、頭光の有無とともに両脇侍分の光背と違いが見られる(文化庁編『戦災等による焼失文化財:20世紀の文化財過去帳』新版、戒光祥出版、2003年、52-53頁)。⑾林温「天のシルクロード」(サントリー美術館『天上の舞 飛天の美』展図録)2013年、15頁。⑿注⑺拙稿前掲論文、83頁。⒀奈良時代では、東大寺、興福寺、西大寺などの堂宇や塔に、複数の彫塑像によって立体的な浄土変が構成されたことが知られる。中でも、天平宝字四年(760)頃の法華寺阿弥陀浄土院は、池を備えた庭園を持ち、堂内壁面には雲とともに「楽天」が廻らされていた。平安後期では、現存する平等院鳳凰堂に見るように、各地に本格的な浄土庭園を備えた阿弥陀堂が建築されたことは良く知られている。⒁伊東史朗「飛天」作品解説(MIHO MUSEUM『いにしえのほほえみ』展図録)2007年、153頁。⒂武笠朗「奈良仏師康助と高野山谷上大日堂旧在大日如来像」(『仏教芸術』189)毎日新聞社、1990年3月、76頁。⒃光背飛天に限れば、本文に挙げたもの以外で上代の現存作例は乏しく、光背飛天の諸様相を十分に知ることはできない。文献では大江親通による『七大寺巡礼私記』で大安寺釈迦如来像の光背について記す中で「光中…(中略)飛天十二体、須弥炎安多宝塔、其塔廻有雲形」とあり、火災後の後補のものかとの問題もあるが、塔には雲を特記しながら飛天に記されないことは、飛翔形であることを連想させる。⒄小野佳代「興福寺南円堂法相六祖像の坐勢について─その意義と創建当初像との関係」(『美術史』156)便利堂、2004年、112-118頁(のち「法相六祖像の坐勢」として同『興福寺南円堂と法相六祖像の研究』中央公論美術出版、2008年に再録)。⒅ちなみに、鎌倉時代以降となると、最下段は立像となることがほぼ固定され、さらに滋賀・常善寺阿弥陀如来像、旧興福寺勧学院本尊で東京国立博物館蔵の文殊菩薩騎獅像、神奈川・称名寺弥勒菩薩像らの光背などに見られるように、当該部は迦陵頻伽の立像となることも多くなる。⒆前掲注⑹津田論文、14頁。⒇『長秋記』長承3年4月10日条。� 『長秋記』長承3年5月1日条。� 『長秋記』保延元年5月5日条。この時の彩色は、一体は応源、一体は智順が担当しているが、長承3年4月10日条では、二階の像は仏所による彩色で良いが「長押上の小仏」は絵仏師応源に善美を尽くして彩色させることが命じられていることから、この時絵仏師によって彩色された像は、平等院の像を模した長押上の小仏であったと見られる。� 飛天と雲を彫り出して周縁部に取りつける方法は、二重円相部の雲を別に彫って貼付ける方法と感覚として共通するものである。丸彫り取り付け型の鳳凰堂像では、本尊の頭光と身光外圏帯の雲が別材貼付けとなる。一方、飛天が周縁部と一体型の浄厳院像から、二重円相部の雲も浮彫りとなり、後には西教寺像などのように唐草文ではあるが彫り透かすものもある。
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