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― 617 ―において、中国大陸の影響下にあるため、本書は実質上東アジアにおける、最初の、近代的な意味での美術史の論述だと言っても過言ではありません。近代的なのは、彼の美術史叙述が西洋美術史への過剰な意識と、ヘーゲルなどの西洋の哲学的美学的影響下にある、ということです。それのみならず、西洋美術への対抗意識が強いことも知られています。また、岡倉覚三が構築しようとしたのは、ナショナルな美術史ではあるが、東アジア的な枠組みにおいてのものでもあります。このこともあり、これは間接的ではあれ、岡倉の美術史叙述と、天心が関わった「美術」という制度がのちの中国などの東アジアへの拡散を、自覚していないにせよ、準備したのです。これは「美術」という訳語自体が今日の中国語になっていることからも窺えるように、中国の「美術」という制度の確立は日本からの影響が大きい。また、日本は近代中国の最初の世代の画家の留学地でもあります。例えば、民国初年における中国の嶺南畫派は、作られた伝統とも言われている日本画からの影響が大きい。また、中国の著名な画家・美術史家の陳師曾(1876-1923)、画家の張大千(1899-1983)、画家・美術史家の傳抱石(1904-1965)、画家の豐子愷(1898-1975)、画家・美術史家の潘天壽(1897-1971)、滕固(1901-1941)などはいずれも日本からの影響が大きい。したがって佐藤道信と木田拓也両氏の講演は、中国の聴衆に美術における日中の美術史的な関連を事実のレベルにおいて共有してもらうのにその意味があります。それだけではない。近代日本の美術史学を批判的に検討する佐藤道信の仕事は、ただちに近代中国の美術史学を批判的に検討することに繋がっているものであり、中国の近代批判の資源として大いに参考になる、ということもさらに意味が大きいのです。他方、木田拓也氏の講演にある「工芸」というキーワードも現代中国語の言葉であるが、近代日本の美術史叙述における工芸の地位がある種の特権化された位置を与えられました。それに対して、中国ではむしろ似たような現象がない。中国において「工芸」が一つの制度として、そして一つの理念として特権的な位置にあるようになったのは、毛沢東によって代表された中国共産党系の左翼革命の実践においてのものです。「工芸」は民衆、労働、解放、革命などの理念を付与させ、山水画や、繊細な中国の朝廷美術などが支配階級のものとして相対化されようとした。これも中国の聴衆が木田氏の講演に高い関心を持った所以でしょう。すなわち、日本の工芸をめぐる言説と実践は近代中国のそれと対照的であるからです。いずれにせよ、今回の両氏の講演の意味は、近代日本が美と歴史叙述を結合させたことを中国の聴衆に展示させ、美とナショナルなアイデンティティとを結合させたことを批判的に紹介したことにある、と私は理解している、これらの講演を通して中国

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