― 58 ―確に自然に対する最も親密な印象を描き出す」ことを目的としていた(注14)。その浮世絵への関心と独特の理解は、作家自身の絵画理念と共鳴していると考えられる。先行研究ではホッパーの浮世絵への関心がパリ滞在時に養われたとされるが(注15)、むしろ十九世紀後半から二十世紀前半にかけてのニューヨークにおける豊かな日本美術受容がその土壌となった可能性が高い。当時はホッパーの師であるウィリアム・メリット・チェイスをはじめとする印象派の画家達を中心に日本文化や美術に大きな関心が集まっていた(注16)。チェイスの絵画には浮世絵や着物、団扇、人形、屏風といった日本由来のモチーフが多く登場し、例えば赤と青の腰帯を巻いた黒い着物を着る女性を描いた《開かれた日本の本》(1900年頃)〔図7〕では浮世絵が印刷された折畳み式の挿絵本が確認できる(注17)。1908年のヤマナカ・ギャラリー、1911年のジャパン・ソサエティ、1912年のメトロポリタン美術館といったニューヨークの画廊や美術館でも浮世絵を紹介する展覧会が度々開催され、広重や北斎の版画が多数展示されていた(注18)。日本美術のコレクションも盛んであり(注19)、ホッパーの浮世絵への関心はこのような日本美術受容を背景に養われたのであろう。3《青の宵》の図像的源泉としてカーターは歌川豊国の《南四季夏景》(1780年代後半)〔図8〕を示唆しているが(注20)、そもそも提灯の飾られた茶屋や遊郭に集う女性という画題は多くの浮世絵師に好まれていた。事実、歌川国芳の《江戸名所草木尽くし、品川八景坂のもみぢ》(1843-44年)〔図9〕では、茶屋に飾られる提灯の下に人々が並んでいる構図だけでなく、細い柱が画面を分断する点も共通する(注21)。《青の宵》に関する画家自身の言説が確認できないため、具体的にどの浮世絵が参考にされたのかを特定することは難しい。だが、これまで述べてきた作家の浮世絵への言説や当時の日本美術受容、モチーフや構図の類似性を考慮すると、新しい表現を追求するなかで若き画家が多くの浮世絵を実見し、その表現を適宜意識的に取り入れいったと考えられるのである。《青の宵》に登場する提灯はその一つであり、実際にホッパーだけでなく周辺の画家達にも好まれていたモチーフであった。ホッパーのもう一人の絵画の師であるロバート・ヘンライの《夜のカフェと日本の提灯》(1895-99年)〔図10〕、共にヘンライのもとで学んだC・K・チャタートンの《ハーレクイン》(1918年頃)〔図11〕など、提灯をモチーフとして取り入れた作品が残されている。一方、当時の新聞記事からは、提灯がより実用的な対象であったこともうかがえる。当時限られた空間をいかに「良
元のページ ../index.html#68