― 66 ―れない。近年の戒律と仏像をめぐる研究の進展は目覚しく(注6)、受戒の場における仏像の意義について注目が集まっているが、唐招提寺金堂に、盧舎那仏と千手観音にならんで薬師仏像があらわされている意味は重い。この三尊が、金堂創建時の構想にもとづくことが明らかとなり、あらためてその背景が検討されるようになったが、やはり天下三戒壇として知られた、東大寺および筑紫観世音寺と下野薬師寺の戒壇を象徴する意識があったことは否めない(注7)。さらに、井上一稔氏(注8)によって明らかにされたとおり、唐招提寺周辺から滋賀・鶏足寺といった地方に至るまで薬師信仰が広がりをみせたことは、当時一般的に期待された役割を考えるうえでたいへん意義深い。もちろん、ことさら鑑真ひとりの営為にとどまらず、そもそもわが国に戒師が切望されていたという背景、山林での修行が持戒との関わりを帯びている点なども考慮すれば、奈良時代をとおして、戒律と仏像との関係が強く意識されていたうえに、薬師信仰の盛行があったことをあらためて確認しておきたい。2.薬師造像のひろがり─福島・勝常寺の薬師如来像と徳一の信仰─戒律と仏像をめぐる問題を考えるにあたって、注目したいのが福島・勝常寺に残る薬師三尊像(注9)〔図1〕をはじめとした遺品である。三尊は、いずれも堂々とした量感をもち、やわらかな衣文が律動的に配されたうえ、誇張的表現を巧みに使いわける点は、みちのくにあってひときわ目を惹く。正統的な造形を示し、割矧ぎの祖形的な技法を用いるところから、従来いわれるように、その造像には中央との関係をおもわせるものがある。こうした観点から、これまでも大同2年(807)ないし弘仁元年(810)に徳一上人が開創したとする寺伝が注目されてきた。徳一(注10)は、南都・法相宗の僧で、東北において精力的に布教活動をおこなったとされる。教学をめぐる最澄との論争が知られるが、最澄や空海の書簡から弘仁6年(815)、同8年には陸奥国に、さらに9年には会津にいたことがわかる。開基を伝える寺院は多く、当地での仏教伝播を考える際には見逃せない存在である。たとえば、都の僧侶が地方で布教をおこなうにあたっては、造寺造仏の指導までおこなわれたという(注11)。頭体幹部をケヤキ、手首先をカツラから彫出するほか、光背や螺髪、像底周辺にスギを用いる点は当地の用材観に倣ったとみるべきだが、会津の地でこの時期にかような造仏がありえた背景には、徳一のような僧侶の介在を想定せざるをえない。
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