― 67 ―こう考えれば、特異な図像も理解しやすくなる。これまでも指摘のあるとおり、薬師如来像が袈裟を通肩にまとう着衣方法や、結跏趺坐した左足先に衣をひっかけるところ〔図2〕は、平安時代にあってはきわめて珍しい特徴である。前者は、飛鳥時代の金銅仏にこそ散見されるものの、後代には宝冠阿弥陀像や清凉寺の釈迦如来像とその模刻などにみられる程度であり、後者も中国・唐代には一般的であったが、わが国では法隆寺塔本塑像を初例として、奈良時代の乾漆像に多いものだが、ほかには鎌倉時代の復古的な再流行を除いて稀である。以上の点から、勝常寺の薬師如来像が飛鳥から奈良時代の仏像に通じる特徴を備えていることが知られるが、ほかにも二重にあらわされたまぶたや、白毫をあらわさない点、両手にかかる袈裟の衣文が、段をなして襞状に重なっていく様子〔図3〕などは、金銅仏や乾漆系の造像に多く認められるものである。ここで想起されるのは、『日本書紀』持統天皇3年(689)7月1日条に「陸奥蝦夷の沙門、自得が請うところの金銅薬師仏像、観世音菩薩像、各1躯、鍾、沙羅、宝帳、香炉、幡などのものを付け賜う」(注12)とある記事である。詳細は知られないが、東北の僧侶が仏像や仏具を都で調達せざるをえない状況がうかがわれる。勝常寺の造仏はこれより時代こそくだるものの、当時いまだ十分に仏教文化が浸透していたとはいえまい。徳一が布教に臨むに際して、小金銅仏などを携えており、これにもとづいた可能性は考えられるだろう。あるいは、もととなったのは仏像ではなく、南都で信仰を集めた特定の薬師仏をあらわした画像であったかも知れない(注13)。このように、奈良時代の造像をもとにした印象の強い薬師如来像だが、脇侍の日光月光菩薩像についてはどうか。やはり、腰高で大腿部を強調した姿は奈良時代風の強いものであり、薬師仏とあわせて衣の端をゆらすところも唐代の造形に由来する特徴とみられる。天衣を背面にめぐらす点も、小金銅仏や檀像に類例のある古様な表現である。四天王像についても、持国天、増長天および広目天が同時期のものとみられるが、量感豊かにあらわしながら、要点を押さえた誇張表現をとる堅実な造形に、三尊と同じ奈良時代の名残がみうけられる。また、寺外にあるとはいえ、県内の個人蔵になる吉祥天像も、顔立ちが薬師三尊にきわめて近いうえ、肩に垂髪がかかる、後世に一般化する髪型の初例であることも注目される(注14)。近年、長岡龍作氏(注15)は、こうした諸像の尊像構成が国分寺や郡寺における仏像の安置状況に通じるところから、いずれも悔過による滅罪と所願成就、とりわけその前提としての戒律の受持が期待されたと考えられている。徳一は山林修行をよくし、空海の書簡に「徳一菩薩は、戒珠氷玉の如く」(注16)とされるように、持戒に
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