― 68 ―おいてもすぐれていたことが知られる。最澄にならぶ南都の碩学でありながら、あえて会津に赴き仏教文化の礎を築いた徳一ならば、民衆の教化においてただ直接的な現世利益のためにのみ薬師仏ほかの尊像を選んだとは考えがたい。その前提となる戒律の堅持を果たすこと、これを説くものとして仏像をあらわしたのではなかったか。3.最澄の薬師信仰─根本中堂像の造像意図─以上、勝常寺に遺る薬師造像にも触れたが、制作に関わったと思われる徳一が南都法相宗の僧であったことから、そこに奈良時代の薬師信仰が伝えられている可能性は強い。最澄もまた、渡唐を経験したとはいえ、奈良時代の仏教に育まれたことは明らかで、根本中堂に安置された薬師如来像も、こうしたところから大きく外れるものではあるまい(注17)。最後に、初期の根本中堂像について僅かに知られる史料をあらためて整理しつつ、造像当初の意義に及ぶこととする(注18)。根本中堂像は、たとえば永観2年(984)の源為憲撰になる『三宝絵』に「像法の時を救い」「妙法の道を開かん」(注19)として最澄が自ら刻んだことを伝えることなどから、従来、世の中が像法から末法へと移るという「像法転時」における薬師如来の利益と結びつけて考えられる傾向にあった(注20)。しかし、造像当初に近い史料にみえないことは井上大樹氏(注21)の指摘されるとおりで、平安時代後期、末法が近づくにつれてこうした信仰がおこったものとみられる。それでは、根本中堂像の本来の造像目的とは何であったか。像法に触れないものとして、第18代天台座主の良源が天元3年(980)にあらわした「中堂供養願文」には「堪忍の多苦を愍い、薬師如来の垂慈を願」(注22)って、やはり最澄が自ら造るものとある。しかし、なぜ薬師如来でなければならなかったのかについて十分に答えるものとはいいがたい。最澄の著作にもみえないうえ、没後ほどなく成立したとみられる『叡山大師伝』(注23)にも根本中堂の薬師について触れられないため、なかなか判然としない。最澄の薬師信仰としては、渡唐に際して大宰府・竈門山寺で造立した「檀像薬師仏四躯」(『叡山大師伝』ほか)も想起されるが、これは渡海成就を祈願したもので、手がかりとはなりにくい。しかし、根本中堂像に言及する史料のなかには、その役割がうかがえるものもある。たとえば、最澄の弟子である光定による『伝述一心戒文』では「年分の二度者は、義真・円澄の両大徳に寄せず、中堂薬師仏ならびに比叡大神に寄せたてまつる文」のなかで、「中堂薬師仏は、二人の年分を持ち、これを永代の基となす。この仏像の前にて年分を試すべし」(注24)としており、ここで受戒者と根本中堂像の結びつきは明
元のページ ../index.html#78