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― 69 ―瞭である。これは弘仁12年(821)以後の状況を述べたものとみられるが、すこし時代はくだるものの、10世紀頃の『慈覚大師伝』の諸本にも、弘仁13年にはじめて大乗戒壇の設立が認められ、翌年の受戒は「中堂薬師仏像前」でおこなわれたと記されている(注25)。もちろん、戒壇堂の建立にともないそちらで実施されることになるが、そもそも薬師如来が戒律と関わりの深いことは、最澄にとって自明だっただろう。また、注目すべきは『類聚三代格』所収の仁和2年(886)7月27日付太政官符に「延暦寺西塔院釈迦堂に五僧を置くべき事」として、「最澄、この寺を創立し、国家を鎮護するなり。すなわち薬師仏像を造る」とあり、像の前で法華経や仁王経、金光明経が講説されたという(注26)。法華経はともかく、後者は典型的な護国経典であり、公的には鎮護国家が標榜されていたと知られる。これらを踏まえれば、善珠が主張したような、戒律護持をとおした鎮護国家こそ、最澄の造像意図ではなかったかと思い至る。比叡山に籠もり、修行をおこなった最澄が持戒を常に念頭においたことは疑いなく、鑑真の来日以後、薬師信仰において戒律の護持が注目されるようになったことは、ひとり最澄にとってのみならず、当時の山林寺院にひろく認められるところであった。さらに、近年明らかにされてきたように(注27)、そもそも鑑真のもたらした天台関係の経典に学び、延暦寺の経蔵に納める一切経の書写を、鑑真の弟子であった道忠の援助によっておこなった点(注28)など、鑑真に対する強い興味がうかがわれる。現存作例に目をむければ、当代の薬師如来立像には「五尺五寸」を基準とした法量のものが多く(注29)、唐招提寺の木彫群に含まれる像〔図4〕が滋賀・鶏足寺像〔図5〕の典拠になったと指摘される(注30)。近年、根本中堂像の左手が肘を曲げた形姿であったことが明らかにされたが(注31)、鶏足寺像や神護寺像はその点まで似ており、根本中堂像を含み広く共有されていた図像であった可能性は十分にあろう(注32)。後年、像法転時の救済が喧伝されるより早く、第2代天台座主義真によっていわゆる「朱衣金体」の彩色がなされるなど(注33)、根本中堂像に固有の信仰背景が生じていったようである。朱色の袈裟は、わが国ではインドの優填王が造らせた釈迦如来像の表徴としてよく知られたものであり、渡唐を契機として根本中堂像が優填王像に擬された可能性もいわれる(注34)。釈迦と薬師の強い結びつきを考えるなら、最澄がもつ薬師信仰の幅として理解されるかもしれない。

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