― 71 ―⑻井上一稔氏、注⑹前掲書。⑼先行研究は枚挙に暇がなく、山岸公基「勝常寺の仏像」『湯川村史』1、勝常寺と村の文化財、湯川村、1985年、を示す。その後、刊行されたなかで主要なものは以下のとおり。山岸公基「勝常寺薬師如来像考」『仏教文化』19、東京大学仏教青年会、1985年。水野敬三郎「会津の古代彫像―勝常寺薬師三尊像を中心に―」『会津の美』2、仏像篇、歴史春秋出版、1985年。文化庁文化財保護部「新指定の文化財」『月刊文化財』394、1996年。若林繁「勝常寺の仏像」『会津の仏像』(『会津若松市史』17)会津若松市、2005年。⑽田村晃祐「徳一について」『仏教文化』19、東京大学仏教青年会、1985年。小林崇仁「東国における徳一の足跡について─徳一関係寺院の整理と諸問題の指摘─」『大正大学大学院研究論集』24、2000年。同「東国における徳一の足跡について─遊行僧としての徳一─」『智山学報』49、2000年。⑾長坂一郎「平安時代前期における南都諸宗の地方寺院経営と木彫像の制作─元興寺法相宗の場合を例として」『仏教芸術』206、1993年。井上一稔氏、注⑹前掲書。髙梨純次『近江の古像』思文閣出版、2014年。⑿新訂増補国史大系『日本書紀』前篇、401~402頁。⒀淺湫毅氏のご教示によると、徳一がその典拠としたのは、同じ法相宗である興福寺東金堂の銅造薬師如来坐像であった可能性もあるという。私見によれば、神亀3年(726)に造立された当初像が焼失した後に造られた応永22年(1415)の再興像は、確かに勝常寺像に類似する点がある。たとえば、袈裟を通肩にまとうところ。台座を宣字座とし、光背には化仏を付したうえ、周縁に飛天をあらわすところ(ただし江戸時代頃の補作)が一致する。ただ、特徴的な足先の表現については確認できないうえ、台座や光背に同趣向をとるものとして薬師寺金堂像(『七大寺巡礼私記』)があり、ほかにも著名な銅造薬師仏として興福院像や元興寺像もあるため、本稿では南都の薬師古像に由来すると考えるにとどめたい。ちなみに、井上正氏は「呉道玄様を受けた何らかの粉本」を徳一が携えた可能性を挙げておられる。井上正「福島・勝常寺薬師三尊像(その2)」『日本美術工芸』607、1989年。⒁文化庁文化財部「新指定の文化財」『月刊文化財』525、2007年。なお、薬師如来に吉祥天という組み合わせは、まさに悔過を通じて結びついたと考えられ、その後、両者が教理的にも深い関わりを持つようになることを思えば、これが9世紀に会津の地でみられることは重要である。吉祥天の図像にもしかるべき典拠が想定され、その請来も徳一に帰されるだろうか。⒂長岡龍作「みちのくの仏像─造形と風土─」『東北─その歴史と文化を探る─』東北大学出版会、2006年。同「楽法寺蔵 観音菩薩立像 妙法寺蔵 伝阿弥陀如來坐像・伝観音菩薩立像・伝虚空蔵菩薩立像」『国華』1326、2006年。同「悔過と仏像」『鹿園雑集』8、2006年。⒃「陸州徳一菩薩宛」『高野雑筆集』巻上(『弘法大師全集』3、565頁)。⒄ちなみに、その造像年代については、『扶桑略記』(12世紀ごろ)などにみえる渡唐前の延暦7年(788)とする説と、天元3年(980)の『中堂供養願文』や永観2年(984)の『三宝絵』などにみえる帰国後の同24年(805)ごろとする説があり、決しがたい。ただ、渡唐後の造像と考える場合、いきおいそれまで何ら堂塔がなかったことにもなりかねず、それも不審である。「入山後のそれなりの時期に薬師如来像の造像が行われた可能性は高い」とする髙梨純次氏の見解に賛同したい。髙梨純次「滋賀・金居原薬師堂木造薬師如来立像再論─平安中期における延暦寺根本中堂本尊像の「形」の認識についての試論─」『美術史論叢 造形と文化』雄山閣、2000年(のち『近江の古像』思文閣出版、2014年、所収)。
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