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― 72 ―⒅田村晃祐『最澄』吉川弘文館、1988年。佐伯有清『伝教大師伝の研究』吉川弘文館、1992年。同『若き日の最澄とその時代』吉川弘文館、1994年。以上の評伝では根本中堂像の造立についても触れられる。⒆『三宝絵集成』笠間書院、1980年、230頁。⒇高木豊「天台宗の造型活動をめぐって」『仏教芸術』172、1987年。� 井上大樹「平安時代中・後期における薬師如来信仰とその造像に関する研究」『鹿島美術研究』(年報第25号別冊)、2008年。� 『群書類従』24、590頁。� 『伝教大師全集』5。� 『大正蔵』74、649頁。� 佐伯有清『慈覚大師伝の研究』吉川弘文館、1986年。� 新訂増補国史大系『類聚三代格』前篇、73頁。� 東野治之『鑑真』岩波書店、2009年。� 本田諭「古代東国の寺院と仏教―道忠教団と初期天台宗―」鈴木靖民編集『円仁とその時代』高志書院、2009年。� 紺野敏文「法量(像高)の基準と自由化」『日本彫刻史の視座』中央公論美術出版、2004年。紺野氏によると、「五尺五寸」という法量は、檀像に求められた「一搩手半」(およそ一尺三寸)を約4倍にしたものであるという。� 井上一稔氏、注⑹前掲書。� 津田徹英「書写山円教寺根本堂伝来 滋賀・舎那院蔵 薬師如来坐像をめぐって」『仏教芸術』250、2000年。� 長岡龍作「神護寺薬師如来像の位相─平安時代初期の山と薬師」『美術研究』359、1994年。同『神護寺薬師如来像の世界』(『朝日百科 国宝と歴史の旅』3)朝日新聞社、1999年。神護寺像については、河内・神願寺からの移入をめぐる議論において、資財帳の精査によって移座されたことが確かめられたが、本稿では、長岡氏の試みられたグルーピング自体は有効と考えている。皿井舞「神護寺薬師如来像の史的考察」『美術研究』403、2011年。� 「先の大師の遺言により、修禅大師みずから身を金色に、衣文に彩色をおこなう」とある。『叡岳要記』(『群書類従』24、所収)、509頁。� 松浦正昭「天台薬師像の成立と展開」『美術史学』15、東北大学、1994年。奥健夫『清凉寺釈迦如来像』(『日本の美術』513)至文堂、2009年。図版出典図1 TNM Image Archives図2、3 筆者撮影図4 『東大寺と平城京』(『日本美術全集』4)講談社、1990年図5 『密教寺院と仏像』(『日本美術全集』5)講談社、1992年

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