― 89 ―2.1940年代の連続性日本の近代美術史はそのまま公募団体が催す展覧会の歴史でもあるという指摘の通り(注6)、展覧会、とりわけ1907年に文部省主催による官展として始まる文部省美術展覧会(文展)は当時の美術界に絶大な影響力を持ち、近代美術史の形成に大きく関わってきた。戦後は日本美術展覧会(日展)と改称したが、従来通り審査員は芸術院会員が務め、無鑑査資格を芸術院会員と旧文展・帝展の委員、審査員までとするなど制度面での抜本的な改革は進まず、多くの批判の声があがり、参加者の減少や審査員辞退などが相次いだ(注7)。出品作を見ても、実際のところは戦前の文展(帝展、新文展)と戦後すぐの日展の出品作の間にさほど大きな変化は生じていないことがわかる。46年の第1回日展に出品された斎藤素巌《戦争、飢餓、甦生》はタイトルこそ敗戦から立ち上がり息を吹き返す日本の姿を連想させるが、このうち「甦生」〔図1〕は両手を広げた女性らしき人物の両脇にシャベルを持った坑夫のような逞しい男性群像が配されており、戦前の「大東亜共栄圏」のスローガンを体現する群像表現と見た目には区別がつかない(注8)。斎藤以外にも、たとえば46年の第2回日展には朝倉文夫《生誕》、遠藤松吉《再建》〔図2〕、林勘五郎《楽園》、堤達男《開放》など、敗戦からの復興を目指すようなタイトルの作品が並んでいるが、戦時下の作品と変わった点を見つけることの方が難しいと言わざるをえない。絵画においても同様のことが言えるだろう。戦後日本を代表する風景画家のひとりである東山魁夷は、1947年の第3回日展に《残照》〔図3〕を出品し特選を受賞、作品は政府買い上げとなる。のちに画家自らが自身の芸術の分岐点と語るように、これ以降は風景画のみを描いていくこととなり、風景画家・東山魁夷の出発点となった。しかし、すでに指摘されているように《残照》そのものに、戦前の作品からの際立った違いは見いだせず、むしろ写実的な表現という点では、最も初期の作品に近い(注9)。こうした状況は特定の作家に限定されるものではなく日展全体の問題として、当時の批評に「戦前の繰り返へしが、再び行はれてゐるだけ」(注10)と揶揄されるほどに、そこには表現上の連続性が確かに見られるのである。また在野団体に関しても「院展は戦時そのまゝの現状維持、二科は分裂後の俄か仕立」という当時の評が残っている(注11)。このような個々の作家における表現の連続性とは別に、ある広がりを持った連続性があることにも注目したい。菊畑茂久馬氏は戦後に描かれた福沢一郎、鶴岡政男、麻生三郎、阿部展也らの作品を指して「肉体絵画」と呼び、そこに藤田嗣治らの玉砕を
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