3-2.1650年代のカルトゥジア会「1652年にインノケンティウス10世により総長に公布された勅令では、いかなる修道院の役職者も付属農場に、あるいは修道院の付属地に永続的にとどまることを禁止されている。しかし、必要な仕事の際にのみそこに行くことができ、それ以上は居続けることができない。(注17)」カルトゥジア会が謹厳な修道実践で偉大な宗教家たちから一目置かれ、対外的には堅実で沈着な印象を持たれていた事実は先に述べた。しかし、この一方で、修道会内部に幾つかの問題を抱えていたことが数々の史料から読み取れる。中でも、フランスに位置する本部グランド・シャルトルーズと他国のカルトゥジア会間の軋轢は、慢性的に修道会を苦しめた。とりわけ急激に発展したスペインのカルトゥジア会は、国政も影響し、しばしば分離活動を行った。現段階ではこの問題とラス・クエバス三部作との関係は見出せないが、18世紀にスペイン国家修族形成として本部から分離する際に制作された、スペインのカルトゥジア会がそれまでに発行した本部の政策に対する陳述書の集成は、カルトゥジア会がそれまでに直面してきた懸案事項に関して貴重な情報をもたらしている。次に引用する一文は、1779年に再版された資料の一つ、『スペインのカルトゥジア会が総長の統治と従属によって被った損害に関する、1682年に制作された意見書』(以下『意見書』と表記)と題された文書の一文で、その内容は17世紀のカルトゥジア会が抱えていた重要な問題を伝えている。カルトゥジア会士たちが農地に定住するのではなく、幾つかの規定の必要に応じて、短期間のみ留まることを認可するインノケンティウス10世の勅書が遵守されることを望む。〔…〕なぜなら、新しい会憲に同内容が含まれているものの、グランド・シャルトルーズの幾人かの修道士たちはこれに従わず、付属農場にとどまっている。彼らは土曜、または祭日の前日にのみ修道院に戻り、その後また付属農場に帰るのである。(注16)インノケンティウス10世の勅書とは、1652年の12月20日にカルトゥジア会士に向けて発せられた勅令で、引用中にあるようにこの勅書に関しては1681年に発行されたカルトゥジア会の修道規則である『新会憲集』の第二部24章の註で言及されている。『意見書』は、イノサン・ル・マソンによって1681年に発行された『新会憲集』の― 94 ―
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