鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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版されず草稿のままに終わったと考えられる資料である。手書きで34枚にわたる回想録では、館長としてキンバルが1942年から44年と推測される時期に接触した3人のコレクターとのやり取りや活動などが記述されている。その3人のうちの1人がスティーグリッツであった。当時美術館はコレクションの拡充に迫られており、この時キンバルはスティーグリッツのコレクションに目をつけたのである(注17)。回想録によると、ちょうどその頃にスティーグリッツやオキーフと親しく「スティーグリッツから厚い信頼を寄せられ」、「彼のコレクションの重要性」を認識していたカール・ジグローサーが版画部門のキュレーターとして美術館に着任し、コレクションの獲得に協力するようになった。ジグローサーはスティーグリッツとオキーフと交渉を進め(注18)、キンバルはスティーグリッツのもとを訪れ、モダンアートへの思いや自館での取り組みなどを語ってスティーグリッツの信頼を獲得していくのである(注19)。そして彼らの「訪問をきっかけにスティーグリッツは遺言書を作成」し、オキーフにコレクションの全てを譲ることにしたのであった(注20)。ワイルも先の博士論文においてスティーグリッツの遺言書を検討しているが、1937年に作成された遺言書は1942年に改定され、スティーグリッツの死後コレクションの所有権が完全にオキーフに譲られることになったと指摘している(注21)。キンバルの回想録は1942年から44年について記したものと考えられるので、美術館の働きかけがスティーグリッツを動かしたとも考えられるだろう。さらに回想録によるとオキーフはスティーグリッツがニューヨークに縁が深いこともあり、コレクションを同地に残したいと考えていたことが分かる。しかしながら一括して寄贈を受けようという機関はなく、そこでジグローサーはオキーフに「コレクションの展覧会をフィラデルフィア美術館で開催して」みて、「それからどうするか決めてはどうかと提案した」そうである(注22)。恐らく全コレクションを獲得したい美術館としては、展覧会がうまくいけばオキーフがニューヨークにこだわる自らの考えを変えるのではないかと期待していたのだろう。一方オキーフは展覧会をきっかけにコレクションの作品をじっくり見ることができたり、作品についての情報をスティーグリッツに確認できるとメリットを感じ、この提案を受け入れたのだった(注23)。こうして1944年7月1日から11月1日に「アメリカ人アルフレッド・スティーグリッツの歴史」展が開催されたのである。ジグローサーが他のスタッフとともに展覧会を担当し、それと同時にキンバルは展覧会の後にコレクションを展示するための新しいギャラリーの整備に奔走して、美術館に7つのギャラリーを準備したのであった(注24)。― 105 ―

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