(4) 依頼主ジャン・シュヴローの肖像:トゥルネ司教たるアイデンティティの表出依頼主シュヴローは、祭壇画では堅信を施す司教として登場し、そしてその後方を飾るタペストリーでは教皇から叙階される姿で現れる。ただし、タペストリーのシュヴローの姿は、祭壇画により、おそらく、ほとんど覆われてしまう。全体的な寸法と祭壇画の大きさ、当時の祭壇の高さ(想定図では約90cmとした)などを考慮しても、シュヴローの姿が表されたとしても胸部より上の部分となる。叙階を授ける教皇は、一般的な叙階図で授与者がするように、右手を授受者へ向けて祝福するポーズを取っていたことだろう。すなわち、教皇は二次元上ではシュヴローへ、そして三次元上では《七秘蹟祭壇画》へと祝福を施す。シュヴローが司教を務める教会、すなわちトゥルネ司教座がローマ教皇から祝福と庇護を受ける構図と解釈できる。(5) テーマ選択:フィレンツェ公会議大勅書内容との類似たりは明らかである(注17)。さて司教座を有するトゥルネ市は、政治的にも経済的にも要所であった。同市の利権を巡ってはブルゴーニュ公国とフランスが抗争を重ね、シュヴローの司教就任に際してもローマ教皇や教会、他国を巻き込んだ末にその任命に至る(1436年)ものの、実働を伴うまでにはさらにその後約2年を要した(注18)。《七秘蹟祭壇画》(1440-45年)および《七秘蹟タペストリー》(1440-50年)の制作は、シュヴローが司教としてまさに実働が伴い始めた頃にあたるが、この時すでにシュヴローは教皇から司教任命とその後の助力を受けるなど多大な恩恵があった。つまり教皇からシュヴローへの司教叙階は、司教礼拝堂の要である最奥、すなわちタペストリー中央部へあてがわれるに非常にふさわしい場面といえる。そしてシュヴローの祭壇画での登場、すなわち表向きには、自身の務めを果たす実直な司教として、そしてタペストリーでは、教皇から叙階された正当なトゥルネ司教としてのアイデンティティが秘匿の裡に表されていると解釈できる。なお、この教皇が時の教皇エウゲニウス4世の肖像の可能性もある。七秘蹟が選出された大きな要因としては、シュヴローも少なからず関わった、フィレンツェ公会議(教会会議)大勅書『エクスルターテ・デオ』(1439年)と『カンターテ・ドミノ』(1441年)があげられる(注19)。前者は、七秘蹟、後者は七秘蹟と旧約の時代における秘蹟に焦点が当てられ、「キリストの受難」と七秘蹟におけるローマ教会の重要性が特に強調される。本展示プログラムは、旧約聖書の諸場面を伴う七秘蹟という予型論的場面を左右の壁面(タペストリー)にしたがえ、最奥ではキリスト― 116 ―
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