と、サデラーの創作という説がある(注9)。この点を考察するために、スプランゲルに倣ってエギディウス・サデラーが版刻した他の作品を見ると、版画《マグダラのマリアと庭師としてのキリスト》〔図4〕でも似通った油彩画が存在するが両作品の描写には異なる点が目立つ(注10)。この版画は、スプランゲルの油彩画《ノリ・メ・タンゲレ》〔図5〕かそのヴァリエーションの絵画、もしくは下絵に基づいているとされ、エギディウス・サデラーだけでなく、ヨハネス・サデラー〔図6〕も版画を制作している(注11)。後者の版画は背景に多少の違いはあるものの基本的に油彩画に忠実である。この2つの版画では銘文が異なる。前者では、“B. Spranger Invent.”とあり、後者では“Pinxit Barth: Spra[n]ger”とある。興味深いことに《知恵の勝利》の版画でも台座に“B: Spranger invent”と記されるので、スプランゲルが下絵を制作したと見なす手がかりになる可能性がある。さらに、版画の《知恵の勝利》中央のミネルヴァのポーズは、ラファエロの《ガラテア》に由来すると言われてきた(注12)。それだけでなく、このポーズはスプランゲルの素描と版画(ザカリアス・ドレンド版刻)《聖マルティヌスと乞食》にも見られると近年指摘されている〔図7、8〕(注13)。版画はジャック・デ・へイン2世が出版したが、メッツラーは彼が版画を出版していた期間をも考慮して、素描の制作年を1593年から1600年頃と定めた。この作品と《知恵の勝利》の版画のいずれが先行するかは定かではないが、スプランゲル自身が類似したポーズの人物像を描いたことから、変更を画家自身が手掛けた可能性も見いだせるのではないだろうか。2.作品成立の背景 ─プラハにおける絵画の地位向上の動きとスプランゲルここで、版画制作年周辺のプラハで画家が置かれた状況を確認しておく。16世紀イタリアで始まった絵画の地位を自由学芸と等しい立場へと高めようとする動きは、この時期のプラハにも到達していた(注14)。プラハではギルドからの離脱は図られなかったために、美術アカデミーの設立はなされていない。むしろ、プラハの画家は、ギルドの中で他の職人技よりも自らの技芸を一段高いものとして区別しようとした。同地では美術理論も執筆されていないが、皇帝自身やプラハの宮廷芸術家と、同時代の理論家、カレル・ファン・マンデルやロマッツォ等との間に交流があり、その理念は特に宮廷芸術家の作品に表れている。スプランゲルは、宮廷だけでなく異例にも画家ギルドにも所属したため、都市と宮廷の双方で起こった変化に関わることとなった。プラハの市井の画家は、ギルドの中で高い地位に自らを置くため、皇帝の特許状を― 125 ―
元のページ ../index.html#136