鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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利用した。ルドルフ2世は1595年にプラハの旧市街およびプラハ城周辺地区であるマラー・ストラナの画家と他の職人から構成されるギルド(以後、画家ギルドとする)に対して勅書を発布している(注15)。画家ギルドに対する特許状は14世紀から出されており、全てのボヘミア王が発行した訳ではないが、各代のボヘミア王に対して発布を請うた可能性が高いだろう(注16)。ルドルフ2世の勅書では、以前の王が認めた特権を改めて承認し、さらに刺繍職人の加入の追認とギルドの紋章の修正の承認を行い、絵画を手仕事ではなく絵画芸術(umění malířské / mahlerkunst)と認める文言を追加している。この勅書は近隣国にも知られていたようであり(注17)、芸術家の創作意欲を刺激した。また、スプランゲルは勅書で定められた画家ギルドの紋章の図案変更も手掛けた。彼の手による図案は現存しないが、ゲオルグ・ガブリエル・マイヤーによる模写がある〔図9〕(注18)。そこでは、3つの盾を内包する画家ギルドの紋章の頂点にミネルヴァが描かれ、左右にメルクリウスとファーマが立っている。ただし、勅書中の紋章の描写で言及されるのはミネルヴァのみであり、変更前の紋章ではムーア人の女性がその位置にいたようである(注19)。このミネルヴァへの変更は、絵画の知的な性質を示すためと解釈されている。スプランゲルは、画家ギルドの長を一時期務めたマティアス・フツスキーと共に、勅書発行に関わった可能性が考えられる(注20)。彼は1584年6月24日にマラー・ストラナの画家ギルドに加入しているが(注21)、ギルドでの活動記録はほぼ残っていない(注22)。そのためか、彼と画家ギルドの関係については、スプランゲル研究においてあまり取り上げられることが無かった。16世紀末プラハの本運動に関する研究では、根拠は述べられないながらも、スプランゲルが宮廷と都市の仲介者であり、ギルドで強い権力を有していた可能性が指摘されている(注23)。スプランゲルが勅書で認められたギルドの紋章の図案変更を手掛けたことに加え、勅書が彼の名と共に知られていたようであることは、このことを論じる上で興味深い。1609年、ルドルフ2世の1595年の勅書の写しを求め、ハンブルクの画家ギルドからプラハの画家ギルドへと書簡が送られている。ここには、「幾年も前に、至高の魂の記憶たるローマ皇帝陛下が同地でプラハの画家たちのギルドに対し、紋章授与証書によって慈悲深くも特権をお認めになり、お許しになりました。そして、最近、同様の紋章授与証書が、現ローマ皇帝陛下、我らの慈悲深き王によって、尊敬すべき芸術性豊かなバルトロメウス・スプランゲル氏の援助から慈悲深くも拡大され改められました。(注24)」と記される(注25)。つまり、スプランゲルの援助によって1595年の勅書が改められたと読むこともできよう。― 126 ―

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