鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
138/550

さらに、スプランゲルは絵画の地位向上に関係する主題の作品をしばしば制作しており、その関心の強さが窺える(注26)。この一因に、神聖ローマ皇帝に仕える前に、イタリアで絵画の自由学芸化の動きに恐らく触れていたことが挙げられるだろう。彼はローマでアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿に仕え、1569年から1570年頃にカプラローラでファルネーゼ宮殿の装飾を行った(注27)。フェデリコ・ズッカリは同宮殿の天井に《ヘルマテナ》〔図10〕を描いており、スプランゲルはこれを目にした可能性が高いとされる。ヘルマテナとは、雄弁の神メルクリウスと知恵の女神ミネルヴァの統一を示す図像である。本来アカデミーの象徴であったが、プラハでは絵画の知的性質を示すためにも用いられた。後年、スプランゲルはプラハ城の白塔の天井に《メルクリウスとミネルヴァ》〔図11〕を描いており、ここにはズッカリの影響が読み取れる(注28)。その上、ズッカリは1570年代にフィレンツェ素描アカデミーに教育改革案を提示した美術理論家でもあり、スプランゲルは彼の芸術理論の影響を受けた可能性もある。加えて、この頃プラハ宮廷では、経済的・社会的に芸術家の立場が上昇していた。宮廷芸術家は高い報酬を得ていた上、1580年代から1590年代にかけてルドルフ2世は多くの芸術家を貴族に列している(注29)。スプランゲルもそのひとりであり、1595年10月に世襲の貴族となった。このように、版画が制作された周辺の時期の1590年代後半に絵画の地位を高める動きが盛んになっており、スプランゲルはその動きに深く関わっていたと推察される。3.版画《知恵の勝利》以上を踏まえると、この版画は従来言われてきたよりも強く絵画の地位の向上と結びついているのではないだろうか。当時絵画の地位を自由七学芸と同等と見なそうとする動きがあり、例えば「絵画」を「自由学芸」に紹介する版画も制作されている〔図12〕。このことに鑑みれば、版画でミネルヴァの立つ台座左右に描かれた人物像は、左手には手前からメルクリウスと自由学芸の「天文学」、「音楽」、右手には「絵画」、「彫刻」、「建築」となるだろう。ここに自由学芸と美術のみならずメルクリウスが描かれるのは、ミネルヴァとヘルマテナ主題を成し、絵画の知的さを示すために他ならないだろう。総じて、絵画の自由学芸化の理念が後景に反映されている。さらに、ミュラーが指摘したように、版画では台座正面にカプリコルヌスが描かれない。カプリコルヌスはアウグストゥス帝と彼が導くパクス・アウグスタを示唆し、ルドルフ2世はその再来者とされたため彼の象徴でもあったのだが、その不在により― 127 ―

元のページ  ../index.html#138

このブックを見る